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宇宙開発史(4) ソユーズ、月面に到着せず-ソ連の有人月飛行計画はなぜ実現しなかったか [宇宙のロマン]

ルナ16号、月面から土を持ち帰る


 ソ連の有人月飛行計画はロケットの開発失敗(参照:実用化に至らなかった幻のN-1ロケット)から断念することを余儀なくされたのですが、アポロ11号によって”人類初の月面到着”という栄誉をさらわれっぱなしにできず、月から土を持って来るくらいのことなら、わざわざ多大な資金を使って有人宇宙船を送り込まなくても無人探査機で間に合う、と米国(西側陣営)に見せびらかさないばかりに、1970年9月12日にルナ16号を打ち上げ、「豊かの海」へ無事軟着陸させ月の土壌サンプルを地球に持ち帰ることに成功しました。
ソ連は、ルナ16号に引き続いて、二ヶ月後の11月20日にはルナ17号を打ち上げ、これも無事に「雨の海」に軟着陸させ、土壌サンプルを採集するとともに、初めて無人月面車ルノホート1号をバイコヌール宇宙基地からのリモートコントロール(遠隔操作)で走行させ月面探査を行いました。

 

 アポロ11号とルナ15号は同時間帯に月着陸一番乗りを目指していた
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しかし、当時、米国もその他の西側諸国も知らなかったのは、ルナ16号より先に、いや、正確に言うとアポロ11号より先に月から土を持って来る目的で打ち上げられたルナ15号という無人探査機があったということです。
ルナ15号が打ち上げられたのは7月13日、つまりアポロ11号より三日前にバイコヌール宇宙基地から打ち上げられ、17日には月周回軌道に達し、数回の軌道変更を行った後、20日に近月点16Kmの軌道に入りました。 この時、アポロ11号はすでに月周回軌道に達していおり、同日午後20時17分(UTC)にアポロ11号は「静かの海」へ無事着陸しました。
しかし、ルナ15号はまだ周回を続けており、予定ではアポロ着陸の2時間後くらいに軟着陸するはずでしたが、着陸予定地点のデータ不足から、さらに情報を得るために軌道滞在時間を18時間延長しました。
結局、この延長時間が、アポロ11号に人類初の月面到着と月の石(土壌)採集という二つの栄誉をもたらすことになってしまったのです。

ロシアの宇宙博物館に展示されているルナ16号のレプリカ

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しかし、どのみち、ルナ15号が周回時間を延ばさずに月着陸を行っていたとしても、ルナ15号はアポロ11号に先んじて月の石(土壌)を地球に持 ち帰ることは不可能だったでしょう。なぜなら、7月20日、まさにアポロ11号のクルーが月面での全ての任務を終え、月の土壌サンプル(重量 21.5kg)を積んでイーグル号で離陸する直前(2時間前)に、ルナ15号は月面への降下に失敗して「危険の海」に激突してしまったからです。幸運の女 神は一度そっぽを向くと二度と振り返ってくれないのかも知れません。  

ルナ17号では月面車ルノホード1号が月面を走りまわった(イメージ図)
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ラボチキン博物館に展示されているルノホード
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ソ連の有人月飛行計画はなぜ実現しなかったか


 前置きはこれくらいにして、今回のメーンテーマに入ることにしましょう。
前回(”宇宙開発史Part-3”)は、月一番乗りを目指して米ソ(米国とソ連)がしのぎを削る競争を展開し、結局、米国がアポロ11号でもって人類初の月面到着という快挙を成し遂げたことについて見ました。 
結 論から先に言うと、アポロ11号の成功は、NASAに総力を結集した米国の宇宙開発戦略の勝利とも言えます。一方、ソ連(旧ソビエト連邦の略称。現ロシ ア)が技術力においては米国に遅れをとっていなかったにも関わらず、月面着陸で米国の後塵を拝すことになった理由の一つは、ソ連が月を目標とした宇宙開発 計画を、有人月着陸計画(L3)と有人月周回計画(L1)という、別個に分けた計画として進めようとしたところにあると考えられます。つまり、ソ連には米 国のNASAのように宇宙開発計画を統一して管理する機関がなく、また統一的な宇宙開発政策(この場合は月飛行計画)をとらなかったことが米国に遅れを とった最大の原因と言えるでしょう。

夢に終わったソユーズによる月面到着  (credit: CSI)
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NASAは米国が唯一の宇宙開発を計画・実施する機関であり、米ソの宇宙開発競争がもっとも熾烈を極めた1960年代には、そのほとんどの重要な期間をジェイムズ・E・ウェッブ長官が指揮をとったのとは異なり、ソ連の宇宙計画はセルゲイ・コロリョフミハイル・ヤンゲリヴァレンティン・グルシュコウラジミール・チェロメイら に率いられた、複数の設計局(ソ連で、兵器などを設計・開発した部局)に分かれてお互いが競合しあっていました。 それがいかに無駄であったかを一例をあ げて示すと、1960年代初頭の一時期にソ連には30ものロケットや宇宙船の開発プロジェクトがあったと言われていますから、これではいくら資金と技術力 があっても足りるはずがありません。
その宇宙開発政策の不手際と合わせて、ソ連の月飛行計画にとって致命的だったのは、”ソ連バージョン・サターンロケット”とも言える、超大型運搬ロケットN1の開発・実用化に失敗した事が、同国の月飛行計画を頓挫させた最も大きな原因と言えます。
N1ロケットは5段構成のロケットですが、下段にいく程、ロケットエンジンの数は増えていき、三段目は4基、二段目は8基、そして最下部の一段目になると実に30基のエンジンをクラスタさせて、高精度でシンクロ・コントロールさせるという技術が不可欠でした。
スプートニクロケット、ボストークロケット、ソユーズロケット、そして現在も使用されているプロトン・ロケットと同じく、ソ連の宇宙ロケットの”十八番”とも言えるクラスター・ロケットで すが、以前から使用していた信頼性のある小推力のロケットエンジンを流用するということで、推力の大きな新型ロケットエンジンの開発に必要となる膨大な費 用や時間を”倹約”できるという大きなメリットがある反面、打ち上げ重量(ペイロード量)が増えれば増えるほど、当然、推力も比例して大きくする必要があ ります。そして、推力を増やすためには(小推力である)ロケットエンジンの数を増やす必要があり、それは同時にこれら多数のエンジンの動作を完全にコント ロールする技術も不可欠となるのです。


発射直前のN-1ロケット N1L3計画による宇宙船打ち上げは失敗が相続いた
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 典型的なクラスターエンジンであるN1ロケットの第一段
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N1 ロケットの開発実験では、失敗の全てが30基もの大量のエンジンを束ねている一段目部分(上の写真)に集中していました。 これだけの数のロケットエンジ ンを完全にシンクロ・コントロールさせる事は、現在の科学テクノロジーをもってしてもかなり困難であり(ただし、現在でもアレス・ロケットな どでクラスターエンジンの採用が計画されているものもある)、それを40年前、しかも当時、世界最先端の技術をもっていたとはいえ、ソ連一国でこの複雑な テクノロジーに挑んだという無謀さ、そしてクラスター・ロケットへの過度の執着こそがソ連の月飛行計画の実現を阻んだと言えます。(N-1ロケットについ てはPart-3で詳しく述べているのでここでは省略します)
ソ連は有人月飛行計画の末期にその過ちに気づき、より大推力の新型ロケット・エンジンNK-33の開発に成功し、同エンジンを採用した改良型N1ロケット(N1F)の開発に着手しましたが時すでに遅く、N1Fとしての性能実験も殆ど行えない内に開発継続は中止となってしまいました。

ま た、政府の失策、後述する設計局の問題と合わせて無視できないのがソ連の経済政策との関連性で、ソ連の宇宙計画は5ヶ年計画という政府の経済計画と直接関 連があり、米国のアポロ計画が1961年にスタートしたにも関わらず、同規模の宇宙開発(有人月飛行)計画を推進するのに必要な予算を承認する次の5ヶ年 計画は、1964年まで待たなければならなかったということもソ連の宇宙開発事業に十分な資金を投入することを困難とさせる大きなネックとなったようで す。 さらに集権的計画と生産目標への固執という政治体制が、中間管理者とエンジニアたちに宇宙船やロケットの欠点を報告させることを困難にし、後の低質 な品質管理へと繋がったことも無視できないでしょう。



ソ連の月飛行計画


 ここで、この有人月着陸計画と有人月周回計画がどのようにして生まれ、ソ連の宇宙開発計画の中でどのような経緯をたどっていったかについて見みることにしましょう。
米 国が1960年の初めからアポロ計画を進めていた頃、ソ連は有人月飛行計画の存在を否定も肯定もしませんでしたが、1969年7月にアポロ11号の月面着 陸が成功したとのニュースを得ると、ソ連は「有人月着陸の無謀さと無意味さ」を強調する政府コメントを発表し、同国には有人月飛行計画などないと報道しま した。
しかし、実際はソ連も1964年以降、1974年6月23日に政府命令で正式に中止されるまで、1975年を目標達成時期とする有人月面着陸計画(ソユーズL3計画)が存在し、進めていたことがソ連の崩壊後の情報公開で明らかになっています。

正 式に中止命令が出された時点で、有人月宇宙船「ソユーズLOK」と着陸船「LK」については何とか完成させていたのです(2機が1974年8月と年末の無 人自動操縦テスト用、2機が有人月面着陸用、と使用用途が明確に確定されていて、さらに2機が建造中だった)。 相次ぐ打ち上げテスト失敗で、開発のメド がまったくなかったN-1ロケットを除いて、その他はほぼすべて有人月面着陸に使用出来るまで完成していたにも関わらず、それらの機体はスクラップにされ てしまいました(注:着陸船・宇宙服の一部はパリのディズニーランドに常設展示中)。


 

ソ連の月着陸船 アポロ宇宙船と違って飛行士はいったん船外に出て月着陸船に移る必要があった
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モスクワ郊外のコロリョフ・スクールに展示されているソ連の月着陸船
 アポロの着陸船と違って一人乗りである
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ソ 連では”設計局”と呼ばれる、欧米の航空会社に匹敵する宇宙開発(及び兵器)企業が数多く存在することは冒頭で述べましたが、これらの設計局が独自に計画 を発案し、政府の承認のもと、または政府の要請によって、協力あるいはお互いに競合しながら宇宙開発計画を推進したことは冒頭で述べました。

第1設計局を率いるコロリョフは、「ボスホート計画」 まではソ連の有人宇宙船計画を独占していたのですが、有人月周回計画はチェロメイが率いる第52設計局が開発計画を進めていました。もちろん、コロリョフ の第1設計局とは別個に、ライバル企業としてです。ソ連政府はそれぞれの設計局同士で競争させ、より優れた計画を採用する方針をとっていたのです。この点 は米国政府などが、次期軍用機などを生産するメーカーを選択するシステムに似ていますね。



   ガガーリンとコロリョフ
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第1設計局のL1計画とL3計画

  コロリョフの第1設計局で、L1(または7K-L1)と呼ばれる有人月周回計画と、L3(またはN1-L3)と呼ばれる有人月面着陸計画の二つの月計画を 進めていました(原案ではL1、L2、L3、L4、L5の五つがあり、これらのうちL1とL3が実際のL1とL3の原形となった)。
L1計画の構 想では、打ち上げにはR7ロケットを使い、宇宙船はソユーズを使用する予定でした。しかし、一度の打ち上げでソユーズ宇宙船を月周回軌道にまで送り込むこ とはR7ロケットのペイロード能力では無理だったため、複数のR7ロケットを使用する計画でした。この構想では、地球周回軌道に、

     [1]飛行士が搭乗したソユーズ宇宙船(1機)
     [2]月軌道投入のための推進モジュール(1機)
     [3]燃料補給用のタンカーモジュール (4機)

を連続してR7ロケットで打ち上げ、それらを地球周回軌道上でドッキングさせ、月へ飛行するというプランでした。ちなみに、タンカーモジュールは全部で4機、推進モジュールとソユーズ宇宙船を含めると、使用するR7ロケットの数は6基に達しました。


L1計画では複数のR7ロケットが使われる予定だった
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第52設計局のLK1(有人月周回)計画

 一方、チェロメイの第52設計局の有人月周回計画はLK1計画と呼ばれるもので、打ち上げには同設計局で開発した大陸間弾道ミサイルの転用である、UR-500K/プロトン・ロケットを使用し、宇宙船も同設計局が設計・開発したものを使用する予定でした。
この宇宙船は後のサリュート計画(ソ連の初期宇宙ステーション計画)においてサリュート7号にドッキングしていたTKS宇宙船に発展したようです。プロトン・ロケットは現在でも使用されているもので、その打ち上げ能力は一度の打ち上げで有人宇宙船を月周回軌道に送り込めるほどです。


大陸間弾道ミサイルからの転用であるプロトン・ロケット
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プロトン・ロケットのエンジンもクラスター・エンジンである
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TKS(コスモス衛星とも呼ばれる。宇宙ステーションへの人員・物資補給用宇宙船)の概念
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ソ連政府はこれら二つの計画のうち、月周回飛行にはLK1計画を、月着陸にはL3計画をもって目標達成するとの決定を下しました。つまり有人月着陸計画は第1設計局、有人月周回計画は第52設計局がそれぞれ別個に進めることになったのです。
しかし、ソ連政府の最終目的が月着陸であった以上、技術力と資金を二分することになるこの決定は、米国との競争に勝つためには非常に不利になることは誰が考えても分かることです。それにも関わらず、なぜこのような不合理な決定が下されたのでしょうか?
その原因の一つは、時のソ連の首相、ニキータ・フルシチョフの息子であるセルゲイ・フルシチョフが、第52設計局の総責任者であるチェロメイの下で働くエンジニアの一人であったということです。早い話が、フルシチョフ首相の親バカによってチェロメイの第52設計局はソ連政府から優遇されていたわけです。 

も ちろん、これだけがソ連政府が不合理な決定を下した原因ではありません。技術的な面から見れば、第1設計局のL3計画による、6機のR7ロケットを月への ロンチウインドー(打ち上げ可能時間帯)に合わせて連続打ち上げするというのは並大抵ではなく、さらに地球周回軌道上で燃料補給のために何度もドッキング をしなければならないということは、さらに困難性を増すだけでした。
合理性という面だけから見るならば、一度の打ち上げで有人宇宙船を月の軌道に 送り込むことのできるプロトン・ロケットを使ったLK-1計画の方がL3計画よりはるかに実現性、成功性の高いものだったわけです。このことは、ずっと後 ほど、第1設計局がL1計画で打ち上げ用ロケットをN-1からプロトンへと変更したことでも明白ですが、月飛行計画を2つのチームに担当させ、なおかつ、 宇宙船までまったく別のものを設計・製造するようにさせたのは明らかにソ連政府の失策でした。 米国がフォン・ブラウンの指揮の下、アポロ計画用にサター ンV型に絞ってロケットを開発したのに比べ、ソ連の場合は肝心のロケット開発まで、N-1(第1設計局)とプロトン(第52設計局)と二つに分けて開発を 進めたのは時間と金の無駄というより他ありません。 月飛行計画にせよ、打ち上げロケットの採用にせよ、ソ連という国はつくづく非効率、不合理が当然のよ うにまかり通っていた国(政治制度?)だということがよく分かりますね。


立場、役割は違っても、ソ連の宇宙開発にそれぞれ大きな貢献をしたチーフデザイナーたち
(右から、コロリョフ、ミシン、グルシュコ、チェロメイの4人)
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 このソ連政府の月をターゲットとした計画を二つ(有人月着陸と有人月周回)に分けるという失策にプラス(マイナス?)して、大きな影響をあたえたのは、それまで第1設計局を率いて世界トップレベルの宇宙開発を進めていたコロリョフの夭逝でしょう。
1966 年という、ソ連にとって、まさにこれから宇宙開発(月面到着)競争の正念場にさしかかるという重要な時期であり、第1設計局にとっても、コロリョフ自身の 長年の夢でもあった有人月着陸計画について、ライバルであったチェロメイの第52設計局との競争に勝って(チェロメイのLK1計画はフルシチョフに代わっ て指導者となったブレジネフ書記長からキャンセルされたのが原因)、第1設計局が独占的に有人月飛行計画を実施できるゴーサインを政府からもらってわずか 3ヶ月後にコロリョフが亡くなったということは第1設計局にとっては大きな痛手であり、ソ連政府にとってもあまりにも大きな損失でした。 しかも、コロ リョフの後任に選ばれたミーシンは技術者としては優れていたのですが、コロリョフほどの力量も政治力もなかったようで、コロリョフ亡き後、第1設計局は 数々の問題に直面します。


                ソユーズ7K-L1型(一般的にゾンドと呼ばれているソユーズ型無人宇宙船)
ソユーズ宇宙船の先端の生活モジュールを取り去った、帰還モジュールと推進モジュールのみからなる機体で、帰還モジュールにはパラボラアンテナがつき、推進モジュールには2枚の太陽電池パネルが取り付けられている。地上に帰還するのは、帰還モジュールだけ (参考サイト:7KL1/ゾンド計画


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参考までにミーシンに代わってからの第1設計局による月飛行計画のロケット打ち上げ結果は
次のようになっています

  1967年4月9日-コスモス154号打ち上げ(L1計画の無人地球周回テスト)。失敗
  1967年4月23日-L3計画によるソユーズ1号の打ち上げ。着陸時にパラシュートが開かず
                           コマロフ飛行士死亡
  1967年9月27日-ゾンド1967A号-初の無人月周回を目指したロケットの打ち上げ。失敗
    同年11月22日-ゾンド1967B号-2度目の無人月周回ロケットの打ち上げ。失敗
  1968年3月2日-ゾンド4号- 順調に月へ向かう長楕円軌道に乗せられ地球に帰還したが、大気圏で
                        減速のための水切り飛行に失敗し、回収不能地点への着陸阻止のために自爆。失敗
  1968年4月22日-ゾンド1968A号-緊急脱出装置の誤作動が原因で第2段が260秒後に停止し
                         ロケット墜落。失敗
   同年 7月21日-ゾンド1967B号-(ゾンド7KL1s/n8L)発射前にロケットが爆発。失敗
   同年  9月15日-ゾンド5号-月への楕円軌道への投入に成功。月面から1950Kmの地点を通過し、
               月の裏側を回ったが、姿勢制御装置のトラブルで月の裏側の撮影はできなかったが、
                        地球から9万Kmの地点から初めて地球を撮影した。亀や他の生物が生きた状態で
                        月軌道から無事に帰還。成功

 
ゾンド5号が撮影した、人類が初めて見る地球の大きな姿
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   同年11月10日-ゾンド6号-月面から2420Kmの地点を通過して裏側を回るが、帰還時の着陸に失敗
  (1968年12月21日-アポロ8号、有人月周回ミッションに成功 )
  1969年1月20日-ゾンド1969A号-第2段目が故障し、墜落。失敗
   ( 同年7月20日、アポロ11号の月着陸船でアームストロングとオルドリンが人類初の月面到着)
   同年 8月8日-ゾンド7号-月フライバイ達成後、無事に地球に帰還。
   同年10月20日-ゾンド8号- 部分的成功  水切り飛行には失敗。失敗


ゾンド7号が撮影した月平線から出る地球と地球(ソ連初のカラー写真)
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当然、これらの失敗の全てがミーシンの責任ではありませんが、打ち上げロケット(N-1)が原因の失敗が半数近くを占めており、それに加えて”米国(アポロ計画)に遅れをとるな”とのソ連政府からのプレッシャーから、十分なテストや欠陥改善を行わずに打ち上げたことから来た失敗が多いと言えるでしょう。
そんな中でゾンド7号の月周回飛行ミッションの成功は、いくばくかの安堵を第1設計局の関係者とソ連政府にもたらしたかも知れませんが、アポロ11号の快挙の前には霞んでしまうような出来事でした。



ソユーズ1号の事故とコマロフの死

ここで1967年4月23日に起きたソユーズ1号の事故とコマロフ飛行士の死について、もう少し詳しく見てみたいと思います。
実 は、ソユーズ1号の事故は、”起こるべくして起こった事故”だと言われています。それは、ソユーズ1号の打ち上げに先立って、コスモス133号(2機打ち 上げ)、コスモス140号というコード名でそれぞれ打ち上げられたソユーズ(無人)宇宙船(計3機)は、相次いで打ち上げ時のロケット爆発、地球軌道上で のロケット・エンジントラブル、そして帰還用カプセルの気密性トラブルなどのという重大な問題が発生していて、とても飛行士を乗せて打ち上げれるだけの信 頼性、安全性がなかったにも関わらず、”労働者の日であるメーデーをさらに盛大に祝うため”、そしてちょうど1967年がソ連の革命50周年にあたること から、”社会主義革命50周年の祝典に華を添えるため”という政治的目的のため、そしてまた”宇宙開発競争において米国に完全に勝利した”ということを世 界に宣伝するため、現場(設計局&飛行士)の声を無視して、無理やりに打ち上げられたからです。(似たような事故はほかにも度々ソ連で起こっています。関連記事

ソ 連のような全体主義国家では、そんなことはごく普通だったのでしょうが、第1設計局のミーシンはソユーズ1号の打ち上げ前祝いで「たぶん、ソユーズ2号の 打ち上げは中止されるろう。センサーも太陽電池も完全ではない…」と飛行士たちに告げており、また、当時、ソ連の宇宙担当副司令官であり、宇宙飛行士たち の訓練の責任者であった、ニコライ・ペトロビチ・カマーニン空軍大将が記した日記(注:「カマーリン日記」と呼ばれ、ソ連宇宙開発史研究家の間では信頼性 の高い、極めて重要な資料)には、「最大の目標は、無事に帰ってくることだ。ドッキングと搭乗員の乗り移りはその次でいい。いや、そんなものはどうでもい い。ソユーズ1号だけで、まだ203ヶ所の欠陥がある…」と書かれていたというから、大戦中の日本のカミカゼ特攻隊と同じで万が一にも生きて帰ってくるこ とは望めないミッションだったのです。


長年にわたって宇宙飛行士たちを育てたカマーニン と  親友同士であったガガーリンとコマロフ
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そのソユーズ1号の飛行士として選ばれたのがウラジミール・コマロフ大佐でしたが、なんたる運命の皮肉か、ソユーズ1号の予備飛行士はボストーク1号で人類初の宇宙飛行を達成したガガーリンだったのです。
コ マロフ自身、もし、彼がソユーズ1号に乗るのを断れば、代わりにガガーリンが乗ることになり、ソ連国民の英雄である彼を死なすことになるのを知っていたた め、生きて帰れる可能性がほとんどないと知りつつ、敢えてソユーズ1号で飛んだのだと言われています。ちなみに、コマロフとガガーリンは親友で家族同士で のつきあいがありました。いつの世でも麗しいものは真の友情、そして人々の希望を、幸せを無慈悲に奪い去るのが国家権力というものなのです。
それにもしても重ね重ね残念なのがコロリョフの夭折です。コロリョフが生きていたら、政府に直訴してでも更なるテストを要求していたかもしれない… しかし運命は、時に残酷にみえるような選択をするようです。

コ マロフが自分の命と引換に守ったガガーリンでしたが、コマロフの事故死から約一年後の1968年3月27日に、ガガーリンは飛行指揮官となるための飛行訓 練中に教官とともに搭乗していたMiG-15UTIがキルジャチ付近で操縦不能におちいり墜落死しました。ソ連政府は国民の英雄を宇宙船の事故などで死な せないようにと考えて、より安全と思われた任務につくために訓練をしていたのですから、やはり運命はガガーリンに短命を準備していたとしか言いようがあり ません。(参照:ガガーリンの死 ガガーリンの事故死


墜落したミグ15UTIとガガーリン
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  さて、話しをソユーズにもどして、ここでソユーズ宇宙船の特徴について述べると、ソユーズは、それまでのボストークやボスホート宇宙船と違い、飛行士が手 動で宇宙船を制御(操作)できるように作られており、これは宇宙船がランデブーしたり、宇宙船同士がドッキングしたりするのに不可欠な能力です。それまで のソ連の宇宙船がほとんど100パーセント地上の管制センターからの遠隔操作で制御されるか、オートマチック(自動)システムの”自動・リモートコント ロール宇宙船”であり、宇宙飛行士は”お飾り”みたいなものだったのとは大違いですね。 ただし、飛行士の制御による運動能力があるとはいえ、高度に自動 化されており、ドッキングなどの重要な操作は相変わらずオートマチック・システムでした。 ソ連と言う国は、心底人間不信(宇宙飛行士のミスを懸念し過 ぎ)な国だったわけです。


完全無人・自動操縦が可能なソユーズ宇宙船
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ソ ユーズ1号の事故後、第一設計局はソユーズ宇宙船の欠陥の改善に取り組みましたが、トラブルの解消は並大抵ではなく、米国のアポロ計画に遅れをとるまいと プレッシャーをかける政府当局の無理押しにもかかわらず、その後のテストも大幅に当初のスケージュルを遅れ、ようやくソユーズをテスト的に打ち上げるまで にこぎつけました。
以下、タイムスケージュル的に1967年の10月以降のソユーズ宇宙船の打ち上げおよび結果を見ることにします。(先に見た、第1設計局のロケット打ち上げ結果と重複するところがあります)


  1967年の10月27日-ソユーズ型無人宇宙船コスモス186号をテスト打ち上げ。
    続いて 10月30日に2番目の無人ソユーズ宇宙船、コスモス188号を無事に打ち上げ。
               この2機はリモートコントロール&自動システムで初めてドッキングを達成。
               帰還時にコスモス188号が予定のコースから外れたため自爆させられるという
               ハプニングが生じたが、186号の方は無事にパラシュートを使用して着陸。

  翌年、1968年の4月14日-相次いで(同じく無人ソユーズ宇宙船である)コスモス212号と
              コスモス213が24時間差で打ち上げられ、ドッキングテストが行われ見事に成功し、
              2機とも無事に帰還。


これらの結果を受け、ソ連の国家委員会は次の指示を下しました。

     [1] もう一回無人テスト機を打ち上げる
     [2] 9月に飛行士を1人乗せたソユーズと無人ソユーズの2機を打ち上げて
        ドッキングテストを行い、これが成功したら、
     [3] 11月に1人乗りと3人乗りのソユーズ2機を打ち上げ、ドッキングし、
        飛行士2名がもう一つのソユーズ乗り移るテストを行う

  1968年8月28日-無人宇宙船コスモス238号が打ち上げられ軌道周回飛行を終え無事帰還。
    同年25日-ソユーズ2号が打ち上げられ、翌日、ソユーズ3号も打ち上げ成功。 しかし、肝心の
                      ドッキングテストはベレゴボイ飛行士の操作ミスにより姿勢制御用燃料を使い過ぎにより失敗
  同年12月21日に米国はアポロ8号を打ち上げ、月周回ミッションに成功。
  1969年1月14日にソユーズ4号(シャタロフ飛行士)、翌15日にソユーズ5号(ボリノフ、エリエイセフ、
                     フルノフの3飛行士)を打ち上げ、2機は16日にドッキングに成功し、両機とも無事帰還。
  1969年7月20日、アポロ11号月面到着。
  1969年10月11日-ソユーズ6号(ショーニン、クバソフの2飛行士)打ち上げ。無重力・真空状態で溶接実験。
   翌日、10月12日-ソユーズ7号(フィリィプチェンコ、ボルコフ、ゴルバチコの3飛行士)打ち上げ。
   さらに10月13日にはソユーズ8号(シャタロフ、イェリセイエフの2飛行士)打ち上げ。   
              溶接実験は成功したが、7号と8号のドッキングには失敗。

実 は、このソユーズ6、7、8号のミッションは、第一設計局のミーシンの提案によって、アポロ11号の技術的成功に負けないような技術をソ連がもっていると いうことを誇示する目的で、ソユーズ宇宙船3機による編隊宇宙飛行&2機によるドッキング、プラス至近距離でソユーズ1機が待機という”離れ業”を西側諸 国、とくに米国に見せびらかすことにあったのです。
当然、当時のソ連政府の常套手段で、いつも通りに飛行プランの目的は伏せたままで行ったのですが、結果は上述の通り発表するに値しないほどの失敗だったわけです。


ソユーズ宇宙船

 

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有人月飛行計画で米国に負け、”離れ業的宇宙飛行”にも失敗したソ連に残された選択はは次の3つでした。


     [1]火星有人飛行
     [2]月有人飛行の続行
     [3]地球軌道周回宇宙ステーションの建設


このうち、火星有人飛行は長距離すぎるという(当然の?)理由で却下され、月有人飛行は”何をいまさら…” という感じで同じく却下され、結局、最後に残ったのは宇宙ステーションの建設でした。

ソ 連における宇宙ステーション構想は、かなり早い時期から検討されていて、第1設計局のコロリョフも宇宙ステーションについてのコンセプトを一応は検討して いたようですが、具体的プランは1964年に第52設計局の総責任者であったチェロメイによって作成・提案されました。 チェロメイの考案したステーショ ンは軍用の偵察を主としたもので、「アルマーズ」と名付けられました。ちなみにアルマ-ズとは、ロシア語でダイヤモンドを意味します。

 

 

アルマーズ(軍事宇宙ステーション)


 ここで、またちょっと寄り道をしてアルマーズ計画そのものについて見てみましょう。
ソ連の宇宙開発を進めてきたのは、主に大陸間弾道ミサイルなどを開発する設計局であったことはすでに見てきました。NASAのフォン・ブラウンと並び近代宇宙開発の双璧と称されるコロリョフが数多くの宇宙船を打ち上げたR7ロケットも、大陸間弾道ミサイルとして開発されたものを宇宙船打ち上げ用に転用したものです。
ボストーク、ソユーズといった宇宙船の開発も、実際は軍事用に転用できるテクノロジーを開発するという目的(コロリョフにとっては軍部および政府をなっとくさせる言い訳?)を全面に出して、軍部を納得させたものです。
したがって、ソ連の宇宙開発事業はその必然的延長として軍事的目的にも向けられることになるわけですが、このような背景のもとで誕生したのが軍事用宇宙ステーション「アルマーズ」(Almaz)なのです。

ソ連では、アルマーズ計画を実施するにあたって、西側陣営に軍事用宇宙ステーションだと思われないように、有人宇宙船のネームである”サリュート”という名前をつけて打ち上げましたが、アルマーズにはOPS(Orbital Piloted Stationの略)のコード名がつけられています。

OPS-1(サリュート2号)
almazdh2.jpg



アルマーズを設計・開発したのは先に述べたように、第52設計局の総責任者であるチェロメイですが、彼が実現化に手間取っている間に、第1設計局のミーシンが政府に対して”軍事用サリュート(アルマーズ)”と科学用ソユーズの2タイプを短期間内に製造・打ち上げするプランを政府に提出し、政府はこれを受け入れたため、アルマース計画は以後、チェロメイの意向に反して第1設計局の管轄下に入ります。 結局、アルマーズは1965年から1970年にかけて8つの試験モデルと2つの実用機が建造されており、5度のミッションが行われ、そのうち2度が成功しています。

 

 

ソユーズ宇宙船とドッキングするアルマーズ軍事宇宙ステーションのイメージ
Soyuz11-amar450.jpg


アルマーズは飛行士の長期滞在用に、娯楽設備、シャワー、簡易トイレ、運動器具(ルームランナーなど)やトレーナーなどが備え付けられていましたが、ほかにも、各種天体観測装置(含、X線・ガンマ線望遠鏡)や各種科学実験設備なども積んでいました(下記参照)。


  アルマーズ軍事宇宙ステーションのデータ (サリュート3号/アルマーズ2号の例)

     全長14.55m
     最大直径4.15m
     居住空間90m3
     重量18.9トン
     推力400Kgメインエンジン2
     太陽電池パネル2、 ドッキングポート1
     エアロック1
     地上観測用カメラ(偵察や地質調査用)
     機関砲Nudelmann NR-23 23mm砲 x 1門
     各種生活必需品(簡易シャワーを装備)
     マグネット式のチェスや書籍、テープレコーダー、運動器具(ルームランナーなど)とトレーナー
     水還元装置(水蒸気を水分に変換、テスト用)


 

アルマーズには敵国衛星攻撃用の機関砲まで搭載されていた

almazgun23mm.jpg


 

打ち上げ準備中のアルマーズ
almaz.jpg


 

アルマーズ船内で地上観測(偵察?)用望遠鏡を見ている乗員
alpanel2.jpg


 

アルマーズの様々なバリエーションとタイプ
 

almazhis.jpg



軍事用宇宙ステーション計画である「アルマーズ・プログラム」と並行して、平和(科学研究)目的である宇宙ステーション計画、「サリュート・プログラム」も同時進行形で進められました。

 1970年6月1日にソユーズ9号(ニコライエフ、セバスチャノフの2飛行士)打ち上げ。
宇宙滞在新記録(18日)を達成。長期間の無重力状態が宇宙飛行士にあたえる影響と軌道上で実施可能な仕事などが研究され、サリュート宇宙ステーション実現化へ向けての大きな一歩となりました。



 サリュート宇宙ステーション

 
宇宙ステーション”サリュート”とドッキングするソユーズ宇宙船のイメージ
1971_Salyut1.jpg



     サリュートのデータ

     長さ       13.07 m
     最大直径     4.15 m
     与圧区画容積    99m3
     質量       18,210 kg


    サリュートの観測装置(計画当初の設置予定機器)

     宇宙における天体調査計画
     地球周回軌道上における望遠鏡の建造
     将来、口径1メートルの望遠鏡を設置
     30ないし40メートルの電波望遠鏡の構築
     3メートルの反射鏡を備えた宇宙望遠鏡の建造

この中で、大口径の反射望遠鏡は米国のNASAが「ハッブル宇宙望遠鏡」で実現されました。

1971年4月19日、世界初の宇宙ステーション「サリュート1号」を積載したプロトンロケットが発射され、ついで23日にソユーズ10号(シャターロフ、エリセイエフ、ルカビシュニコフの3人)が搭乗したソユーズ宇宙船が打ち上げられ、地球周回軌道上にてドッキングテストを行うが失敗したため、ステーションの長期滞在も不可能となり、2日目にソユーズ10号のクルーは無事帰還する。

1971年6月6日、ソユーズ11号(ドブロボルスキー、ボルコフ、パチャーエフの3人)打ち上げ。 サリュート宇宙ステーション滞在の11日目に火災が発生したため、滞在期間は1週間短縮され22日間で打ち切られたが、帰還時にカプセルの空気漏れから全員窒息死


ソユーズ11号の事故は、気圧調整用のバルブのトラブルが原因で起こったものですが、この事故は起こるべくして起こった事故とも言えます。それは、万一の場合、宇宙飛行士の生命を守ってくれる宇宙服を使用してなかったからです。 我々の感覚からすればちょっと想像しにくいことですが、当時、ソ連では宇宙服はそれほど重視されてなかったのです。その原因の一つとして、ソユーズ宇宙船のサイズがそれほど大きくない(直径2.72m)ため、クルーが3人の場合は(宇宙服&生命維持装置)がかさばりすぎて着用できないという問題があったのです。
参考までに、アポロ宇宙船とソユーズ宇宙船のサイズを下記しますが、これを見ただけでもソユーズがいかに窮屈な宇宙船かわかります。


     ソユーズ     アポロ(司令船/機械船)

    全高: 7.48 m     11.03 m
    直径: 2.72 m      3.9 m
    体積: 7.2 m3      6.17 m3


 

アポロとソユーズのドッキング図を見ても両宇宙船のサイズ差がわかる
apollo_soyuz.jpg




結局、サリュート/アルマーズ計画は1971年4月から1986年6月までの期間にわたって実施され、合計7機が打ち上げられて地球周回軌道で運用された。うち、軍事用のアルマーズはOPS-1(アルマーズ1号/サリュート2号)、OPS-2(アルマーズ2号/サリュート3号)、OPS-3(アルマーズ3号/サリュート5号)の3機が打ち上げられたが、軍部はコストパホーマンスが悪いとしてアルマーズ計画を中止しています。 ちなみに、1986年2月にはソ連の新型宇宙ステーション「ミール」が打ち上げられています。


 

ミールの登場まで宇宙ステーションとして活躍したソリュート
Salyut_7_from_Soyuz_T-13.jpg

 

 

第1設計局の終焉


コロリョフ死去の後、第1設計局を率いてソ連の宇宙開発計画を進めて来たヴァシーリー・ミーシンは優秀な技術者でしたが、コロリョフほどの政治力はなく、第1設計局の総責任者として在任中はミッションの失敗が相次ぎ、ソ連宇宙開発の限界を不運にも一人で背負った形のスケープゴートとなり、後に解任という形で第1設計局を追放されました。
そしてなんたる運命の皮肉か、コロリョフがもっとも嫌っていた(注1)グルシュコが1974年にミシンの後任として、「NPOエネルギア」と改称された第1設計局(OKB-1 現 S.P.コロリョフ ロケット&スペース コーポレーション エネルギア)の総責任者となり、1989年に亡くなるまでソ連の宇宙開発に関与し続けました。

注1:セルゲイ・コロリョフは、スターリンの恐怖政治時代に、グルシェコの讒言により無実の罪でシベリア流刑にされ、拷問で顎の骨を骨折、流刑中は極端な栄養失調から壊血病になり、もう一歩で死ぬところだったのを、アンドレーイ・ツポレフの嘆願などにより刑を8年に軽減されたが、このことから生涯、グルシェコに恨みをもつようになった。


グルシュコはもっとも幸運な男だったと言える
    glushko1.jpg


  ソ連で”エンジンの天才”と異名されたヴァレンティン・グルシュコ(Валентин Петрович Глушко 1908年-1989)とコロリョフの関係については、上述の讒言問題による怨恨のほかにも、ロケット燃料についてもそれぞれ違った立場をとって、それこそ”火花を散らす”ような対立関係であったことが知られています。 コロリョフは、液酸・ケロシン系の“信者”であり、これは、「宇宙飛行の父」として知られるコンスタンツィン・ツィオルコフスキーが指摘した、最も効果的な燃料の組み合わせの一つであったからと言われています。
また、コロリョフ自身、自分こそがツィオルコフスキーの正統な後継者と思っていたと思われます。最終ゴールは液酸・液水系を実現することですが、その手始めとして液酸・ケロシン燃料技術をクリアすることが当初の目標であり、それ故、R7ロケットの開発でもケロシンに固執したと言えます。 ところが、ソ連の最大のエンジン生産メーカーであったグルシュコは、四酸化二窒素・ヒドラジン系の信者だったのです。この燃料は有毒ではあるが、長期保存ができ、ケロシンよりも安定した燃焼が可能というメリットがある。それゆえ、グルシュコはロケットエンジンの燃料はヒドラジンにすべきだという信念があったのです。
コロリョフは、グルシュコの告発のために自分が収容所送りになったことを、死ぬまで忘れなかった。(コロリョフの師・ツポレフの嘆願によって8年の収容所刑に減刑された)加えて、己をツィオルコフスキーの後継者と考えているそぶりをグルシュコがちらつかせることに不愉快だった。


コロリョフの遺産

コロリョフが世界一の経済大国である米国のNASAの向こうをはって、ソ連の宇宙開発を推進する一大工場となった第1設計局は、上述のようにグルシェコに乗っ取られましたが、コロリョフの設計したR-7ロケットはその後も仕様変更などを重ね、現在でも運用され、1500回以上の打ち上げに成功している文句なしに世界で一番安全なロケットであり「ロケット界のフォルクスワーゲン」と言われています。

R-7ロケットは、現在はソユーズロケット(A-2)と呼ばれ改良型がいくつかある
soyuz_family.jpg



宇宙開発競争がもたらしたもの― 技術と教育の進歩

 米ソが熾烈な宇宙開発競争をくり広げた1950年代の終わりから1970年代の半ばまでは、科学技術、とりわけ航空技術と電気通信技術が長足の進歩を遂げました。その波及効果は中でもとりわけ、ロケット工学、物理学、天文学やさらに広い範囲にまで及び、「スペースエイジ・テクノロジー」は家庭用品から枯葉剤までのさまざまな分野に応用されています。また、ソ連との宇宙開発競争に勝つための米国の政策によって、学校における理科科学の学習にも大きな変化もたらしました。
アメリカ人が宇宙開発競争の当初に感じた、あっという間にソ連の後塵を拝するまでに落ちてしまったという危機感は、学校教育で数学と物理により重点を置くべきという教育方針の変化につながり、1958年には「国防教育法 (National Defense Education Act)」が制定され、初等教育から大学院にいたるまでの数学や物理の教育を充実させるため予算も大きく拡充されました。

こうした数学・理学重視の教育環境の中で育った科学者たちはの多くは、宇宙開発技術の研究に携わり数多くの成果を生みました。またこうして生み出されたテクノロジーは、台所用品からスポーツ用品まで民生品に広く応用されています。それらの例をいくつか挙げてみると、乾燥食品、調理済み食品 (ready-to-eat foods)、保乾性衣服、曇り止めスキーゴーグルなどがあり、これらはすべて宇宙開発技術にルーツを持つ製品である。マイクロ・テクノロジーももともとは宇宙開発競争にともなう研究によりその進化が加速され、時間の計測からポータブル音楽プレーヤーまで、工業や日常生活のあらゆる分野に計りきれないほどの恩恵をあたえています。

また、現在では1,000個以上の人工衛星(そして計測不能な数のスペースデブリ)が地球周回軌道上にあり、人工衛星はTV放送や通信データを中継し、気象・植生・人の動きなどのデータを遠隔測定(リモートセンシング)によって地上にデータを送っている。 米国はこうしてエレクトロニクス工学、遠隔操作、車両誘導、ロボット制御の分野において世界最先端技術の保有国となりました。一方、ソ連は冷戦終了後もロケット技術の分野でトップ技術を持ち続けています。

 

宇宙開発史-Part1 ガガーリンから50年

宇宙開発史-Part2 米ソの熾烈な宇宙開発競争

宇宙開発競争-Part3 ”ヒューストン、イーグルは着陸した




今回の記事を書くに当たって下記サイトの資料を参考とさせていただきました。


          Wikipedia
          The N-1 Moon Rocket - Features
     astronautix.com N1 Rocket Family
     ロシア宇宙開発史
     Eureka:Recordando al LOK
     Boston.com Big Picture
     Space Race 宇宙開発年表
     Man of the Moon


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rtfk

ソビエト連邦時代のことは当時は絶対的に秘密だったでしょうね。。。
今はこうして教えていただけるので幸いです(^w^)
とても興味深く拝読いたしました(^^)
by rtfk (2011-07-15 16:13) 

perseus

おはようございます。
冷戦当時の意地の衝突ですね。
興味深い内容でした。
by perseus (2011-07-16 10:16) 

しばちゃん2cv

こんにちは
内容の濃い記事に、驚嘆しています。
ありがとうございました。
by しばちゃん2cv (2011-07-16 18:14) 

konn

nice!ありがとうございます。
NHK-BS3でコズミックフロントを見ておりますが、このブログの内容の濃さ、深さに感動です。
by konn (2011-07-17 10:48) 

海を渡る

はじめまして。
ご訪問、ありがとうございます。
宇宙については分からないことが多く、興味深いですね。
これからもよろしくお願いします。
by 海を渡る (2011-07-17 12:27) 

駅員3

大阪万博でアポロが持ち帰った月の石を見るのに何時間もかかったのが懐かしく思われます[わーい(嬉しい顔)][ぴかぴか(新しい)]
by 駅員3 (2011-07-17 18:00) 

Loby-M

>rtfkさん、コメントありがとうございます。
 励みになります^^b

>persuesさん、おはようございます。
 ありがとうございます。ペレストロイカとソ連崩壊のおかげで
 こういった情報が明らかになりました。
 もし、あのままソ連が続いていたら、いまだに謎につつまれていた
 でしょうね。

>しばちゃん2cvさん、ご訪問&nice!ありがとうございます。
 みなさんのコメントが励みになります!

>Konnさん、ご訪問&nice!ありがとうございます。
 みなさんのコメントが励みになります!

>海を渡るさん、はじめまして。
 ご訪問&nice!ありがとうございます。
 こちらこそこれからよろしくお願いします。

>駅員3さん、本物の月の石を見られたんですか!
 スゴイですね。感動的だったでしょうね^^b

>kiyoさん
 ナビパさん
 song4uさん
 milletさん
 はなちゃん104Mさん
 あいか5drrさん
 kurakichiさん
 北のほたるさん
 HiroHeroさん
 ナツパパさん
 ヒロンさん
 Sazabyさん
 ぼんぼちぼちぼちさん
 SORIさん
 きんたさん
 アレクリパパさん
 (。・_・。)2kさん
 masalin6412さん
 マチャさん
 skiさん
 xml_xslさん

  ご訪問&nice!ありがとうございます。

by Loby-M (2011-07-18 02:26) 

美美

宇宙工学に興味がおありなのでしょうか
内容の濃い記事にびっくりしています^^;
やっぱり宇宙に憧れは感じているのでしょうね!
by 美美 (2011-07-19 22:18) 

Loby-M

>美美さん、ご訪問&コメントありがとうございます。
 宇宙工学はさっぱりですが、宇宙のロマンに憧れ続けている
 Lobyです^^;

>fantaさん
 あすぱらさん
 marverickさん
 たくやさん
 nikiさん
 mikotoさん
 ケンタパパさん
 こうちゃんさん
 *ピカチュウ*さん
 ameyaさん
 りぼんさん

  ご訪問&nice!ありがとうございます。


by Loby-M (2011-07-20 22:02) 

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