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世界に誇るシンカンセン Part 1 [日本の技術]

日本の新幹線の技術は世界トップ

 

とはよく聞く言葉ですが、ともすると日本人だけがもっているナショナリズム的な考えのように思えますが、1964年に開業以来、50年近く死者を出す大事故なしという事実は、新幹線が開業当初から時速200キロ以上で走る高速列車であること、地震多発の日本で運行していることなどを考えると、驚異的とも言えます。

1964年、東京オリンピックの年に開業した東海道新幹線のひかり号(0系) 0kei.jpg

 

日本の新幹線の技術力の高さの一端は、先の東日本大地震の際にも見事に実証されました。 3月11日の大地震発生時、東北地方では27本の新幹線が運行中だったにも関わらず、一つとして脱線事故を起こすことなく安全に停止したということです。 これは単なる高速列車の製造技術、走行管理システム技術の優秀さだけではなく、それらが最先端の地震警報システムと組合されたことにより成し得た結果でした。

東北新幹線の場合、列車間隔は4分と言われていますから、もし、27本の列車が運行中に地震に直撃されれば、脱線、追突、また対向線の列車が脱線した車両に衝突したりして多くの犠牲者を出す大事故が発生していたことでしょう。 この、新幹線システムで採用されており、今回の大地震でその威力を発揮した地震警報システムは「ユレダス」(UrEDAS)と呼ばれるもので、地震動早期検知警報システム、Urgent Earthquake Detection and Alarm Systemの頭文字をとって付けられたものですが、鉄道総合技術研究所が1980年代から開発・試験を行なって来て、1990年代初頭から順次東海道新幹線、山陽新幹線、東北・上越・長野新幹線等に導入されてきたものです。

 

東日本大地震の時、橋梁上に緊急停止したMaxやまびこ

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地 震警報システム「ユレダス」の原理は、一つの地点にて観測された地震波の初期微動(P波)の振動波形で、地震の震央位置(震源距離、深さと震央方位から算 出)とマグニチュードをほぼリアルタイム(1秒)で推定し、必要と判断される地域にS波(横揺れ)が来る前に警報を発信するシステムです。

な お初期微動を感知できなくとも、地震動があらかじめ定めた規準値を超過した場合にも、リアルタイムで警報を発信するようになっています。ユダレスによって 地震が検知されると、自動的に送電所から列車への給電を停止させ列車に非常ブレーキを懸けさせ停止させるというものです。 この地震警報システムのおかげで、東日本大震災の場合にも、マグネチュード9という世界最大規模の大地震が発生したにも関わらず、一人として犠牲者を出さ なかったのです。これはまったく奇跡的と言ってよいほどのことでした。 地震警報システムは、日本が世界に誇る新幹線の技術の一つですが、今回はこれらを含めた高速列車-新幹線の歴史と技術について見てみたいと思います。

 

日本の弾丸列車の歴史  

日本で最初に”弾丸列車”と呼ばれる列車が走ったのは意外と古く、1930年代に満州(現在の中国東北部)を走っていた「あじあ号」に始まります。「あじあ号」は満州鉄道(正式名称は南満州鉄道株式会社) によって運行され、1934年(昭和9年)から1943年(昭和18年)まで大連~ハルビン間の約950kmを走っていました。 日本における弾丸列車の構想は、1930年台の初頭、日本の中国・満州方面への進出(侵略)にしたがって増加しつつあった東海道・山陽両本線の輸送量に対 応、さらに輸送力拡大を目標として計画が建て始められていました。すでに、この計画当初段階から、この路線は旧来線とは別路線の広軌鉄道規格採用というこ とから、「新幹線」「広軌幹線」と呼ばれていました。

1940年になると、鉄道省は「東京・下関間新幹線建設基準」を制定、同年に帝国議会で「広軌幹線鉄道計画」として承認され、1954年ま でに開通させることを目標とした「15ヶ年計画」に基いて建設を行うことが決定し、これに基いて用地の買収・工事がスタートすることになります。 この「広軌幹線鉄道計画」構想は、将来的には対馬海峡と東シナ海に海底トンネルを建設し、満州国の首都新京や中国の北京までを直通列車で繋ぐという壮大な ものでした。

さらに、太平洋戦争によって日本軍がシンガポール(昭南と呼ばれた)を占領すると、シンガポールまで延長することも考えられていました。 さらに、「大東亜共栄圏」 構想に基いて日本が東アジア・東南アジア方面における覇権を確立し、日本を中心として東アジア・東南アジアの植民地を解放した新しい共栄圏体制を創ろうと 構想していたことから、北京やシンガポールのほか、インドやラオスなどへの鉄道建設計画が立案され、シベリア鉄道に代わってアジアからヨーロッパをつなぐ 鉄道建設を目指した「中央アジア横断鉄道計画」(新規建設区間は包頭・西安~甘州(現、張掖)~哈密~カシュガル~カブール~テヘラン~バグダッド(他の 区間は既存線利用)なるものまで立案されていたというから、世界の半分を繋ぐ壮大な鉄道網建設のプロジェクトだったと言えます。

 

九州~釜山、 九州~上海を海底トンネルで結ぶ壮大な鉄道計画

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  しかし、太平洋戦争の戦局悪化にしたがって、1943年に(新東海道線の)建設工事は当然中断。ただ、日本坂トンネルの工事は継続され、完成後は東海道本 線のトンネルとして転用されることになります(後に東海道新幹線のトンネルとして転用されることになる)。また、新丹那トンネル・東山トンネルの工事も進 んでいて、用地買収も東海道区間については戦時体制による半ば強制的な形で多くが完了していたため、戦後の東海道新幹線建設時にそれらはすべて利用される ことになります。 このように、現在「新幹線」と呼ばれているものは、かなり以前から考えられ、計画されるとともに一部は実施されてきたわけです。 新幹線列車のオリジン (原型)そのものと言える”弾丸列車”は、最初にも述べた「あじあ号」で、1934年、南満州鉄道によって設計開発されたこの美しい流線形の蒸気機関車は 「パシナ形」と呼ばれるタイプの高速列車で、同じく新開発された流線形客車編成を引っ張って、大連 ~ 新京(現・長春)間701kmを最高速度130km/hで走っていました。当時、日本国内最速の列車が時速95kmであったことから見ると遙かに高速でした。

 

旧満州鉄道の高速列車アジア号

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              あじあ号の動画


 

 

旧満州鉄道の路線

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た だ、あじあ号は当時の世界の高速列車と比較してみると、決して世界トップクラスの高速列車ではなく、当時、英国にはロンドン~エディンバラ間を 160Km/h以上で走っていた特急列車「フライング・スコッツマン」(蒸気機関車)があり、ドイツには「フリーゲンダー・ハンブルガー」(気動車列車) が150km/h以上の高速で運営されていたし、さらに米国には最高時速が180km/hに達する蒸気機関車さえありました。

 

時速160Km以上で走っていた英国のフライング・スコッツマン号 flying scotman.jpg  

 

後で述べますが、この大連~新京(現・長春)を走った特急アジア号を作り、1939年(昭和14年)には、東京~下関間を9時間で結ぶ時速200キロの“弾丸列車”構想を立案したのは、”車両の父”と呼ばれた島 安次郎でした。 この規格の中から、日本と朝鮮の間に海底トンネルを掘削し、北京までをつなぐ高速鉄道の壮大な計画も生まれたのです。 

計 画自体は2年後(昭和16年)に着工にこぎ着けたものの、戦争の激化により1944年(昭和19年)に中止となったのは上述した通りです。 そして、新幹 線の実現において、後に述べる国鉄総裁十河信二とともに大きな貢献をすることになる島秀雄技師長は島安次郎の息子でした。  戦前の「弾丸列車」計画は、戦局の悪化⇒敗戦という時局の変転により頓挫したわけですが、終戦直後の1946年には、民間企業による弾丸列車の建設計画 がありました。

これは「日本鉄道株式会社」(仮称)により構想されたもので、東京~福岡間に、狭軌の民営幹線鉄道を建設して、最高時速 150キロの電車を走らせ、東京~大阪間を4時間、福岡までを9時間で結ぶという高速鉄道建設のプロジェクトでした。建設資金の半分を外資に頼る計画でし たが、政府の”鉄道は国有会社によってのみ経営される”という方針(注:鉄道国有法)のため実現には至りませんでした。

興味深いことに、民間による幹線建設計画はかなり以前からあり、例えば1907年(明治40年)には、当時、中国鉄道会社(現国鉄津山線) の大株主だった安田善次郎が、「日本電気鉄道会社」を設立し、東京~大阪間に高速電車を走らせようとした計画があります。この計画では東京~大阪間に、国 際標準軌間(現新幹線と同じ規格)の電気鉄道を建設し、6時間で結ぶ高速電車を30分毎に発車させるという構想でした。政府の反応は、”産業の発達および国防上の理由からも、幹線鉄道運営への民間企業参加はこれを認めず”、というもので却下されています。東京~大阪間6時間というと初代こだま号(151系)なみの特急列車ということになります。

東京~大阪間を6時間で走った初代こだま号(151系)

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 その後、大正時代を経て、昭和3年(1928)に至るまで、申請は数回にわたりされましたが全て却下されています。 この時代から民間による幹線運営の要望があったということは興味深いことで、当然ながら民間企業は鉄道業による利潤を目指すわけですが、官営企業というも のは、いつの時代でも無駄が多く、効率性の悪い企業が多く、また採算性もあまり重視しないものが多い、というのは歴史をふり返って見れば明らかなことで、 現在、日本の主要幹線がすべて民営化されていることを考えると、あの時代に東海道新幹線が民間企業によって建設・運営されていとしたら、日本の鉄道史は 違った発展を遂げいたかも知れません。

 戦後の弾丸列車計画

 終戦後の混乱期を過ぎ、朝鮮戦争を経て日本の経済復興が本格化し、それにしたがって主要都市間の鉄道輸送量は急増。GHQの指示(マッカーサー書簡)によって鉄道省から分離し、独立採算性の公共企業として創設されたばかりの国鉄は、至急、鉄道輸送需要の急増に対応する必要がありましたが、相次ぐ大事故発生(桜木町事故洞爺丸事故紫雲丸事故)などで信用が失墜していました。    

当時、20世紀初頭には”鉄道王国”とまで呼ばれていた米国などでは自動車道路が鉄道にとって換わりつつあり、マスコミや世論などは、 これからは高速道路や飛行機の時代で、鉄道はいずれ斜陽化すると言っていました。ちなみに、日本の大動脈ともいえる東京~大阪間をつなぐ東海道線は列車で 7時間もかかり、1時間30分で到着する飛行機の圧倒的なスピードの前には為す術がないように見え、国鉄は大きな危機感を持っていました。しかし、従来か らの運輸省鉄道総局からの管理者たちや技術者たちは打開策を見つけることは出来ず、いたずらに焦燥感を抱くだけだったのです。 

政府はこれらの問題への対応も含め、国鉄の立て直し策の一環として十河信二(そごう しんじ、1884年-1981年)を国鉄総裁(第4代)として招聘しました。 十河信二は、鉄道院や南満州鉄道で理事として務めた経験などがあるために白羽の矢が立ったものと思われますが、十河総裁は国鉄の再建にあたって、戦争中に日本軍の研究部門や軍需企業に所属し、終戦とともに失職したり技術を持て余していた優秀な人材を集めるととともに、島秀雄を国鉄技師長(副総裁格)に就任させました。 これらの技術者たちが、その後、新幹線計画を推進することになります。 

ち なみに、十河総裁と組んで新幹線構想実現に大いに貢献した島秀雄技師長は、満鉄時代に十河信二とともに筆頭理事・社長代理としていっしょに仕事をした島安 次郎の息子です。  話しの順序は少し逆になりますが、実は十河・島の”新幹線実現コンビ”に先立って、鉄道技術研究所長・中原寿一郎(第14代)は、運輸次官を説得して、 戦後、職を失っていた元陸海軍の技術者1000人を研究所に採用しました。これにより、当時500人の所員を抱えていた研究所は、一挙に3倍以上に膨れあ がりましたが、これらの優秀な技術者たち(中には「零戦」や爆撃機「銀河」の設計に携わった技術者もいた)が弾丸列車”新幹線”を実現する力となったので す。

 

零戦や銀河を設計した技術者たちが新幹線を創った

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東京・浜松町の鉄道省旧舎 当時はバラック建てだった
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こだま号(151系)の登場  

 このころ(1953年以降)より、日本では欧米からの新技術導入や国内メーカーの技術開発に伴って電車の高性能化が始まっていました。 この年からわずか数年の間に、振動を抑制し、乗り心地改善と高速運転に資する「カルダン駆動方式」、 高速対応の新型台車、床面シャーシだけでなく側板や天井にも応力を分散させた「全金属製軽量車体」、全車両にモーターを搭載して加速力を高める「全電動車 方式」、反応速度が速い上に取り扱いが容易な「電磁直通ブレーキ機構」、制御装置1台を2両の電動車で共用することで軽量化とコストダウンを実現した 「1C8M方式(MM'ユニット方式)」など、革新的技術が続々と導入・実用化されました。 この結果、走行性能が優れ、しかも居住性の良い「新性能電車」が、1954年以降、大手私鉄を中心に続々とデビューし、大きな技術的成功を収めました。国 鉄も新型通勤電車モハ90系などの高性能電車の開発を行います(1957年)。 ついで、小田急電鉄の新型流線型特急電車3000形「SE車」の開発にあたっては鉄道技術研究所が技術指導をし、この通称「小田急ロマンスカー」と呼ばれたSE車は、1957年(昭和32年)に東海道本線で速度試験を行っところ、145km/hに到達し、狭軌鉄道の世界速度記録を更新しました。

 

流麗なスタイルで人気があった小田急ロマンスカー

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 国鉄では、これらの実績を踏まえて、1958年(昭和33年)にモハ90系の技術を応用し、東海道本線用として特急電車モハ20系(後の151系)、 ― こだま号の愛称で親しまれた― を開発しました。 流線型で軽量、低重心な車体は冷暖房完備で、空気バネ台車を装備し、高速と快適な乗り心地を両立さ せて、それまで主力であった動力集中方式(先頭の機関車で列車を牽引する方式)の列車を完全に凌駕しました。モハ20系特急電車は、翌1959年7月には 東海道本線での速度テストで最高速度163km/hに達し、小田急SE車の速度記録を更新します。

 

川崎重工業兵庫工場に保存されている「こだま号」(151系)  KODAMA.jpg 

 

 小田急ロマンスカー(SE車)やこだま号(151系)における実績は、動力分散方式の優秀性を実証し、これらは計画されつつあった新幹線車両に同方式の電車を用いることへの強力な裏付けとなりました。 1955年(昭和30年)に入ると、国鉄は交流電化方式の導入に向けて独自に検討・研究を始めます。 

そして、1957年に北陸本線を交流電化(交流電源を用いる方式)したのを皮切りに、地方線区の交流電化を進めて行きました。この方式は従来の直流電化(直 流電源を用いる方式)に比べ、地上設備コストが低いなどの理由によるものでしたが、後に新幹線の電化システムにも導入されることになります。高速の電気鉄 道では大量の電力消費が生じ、架線から効率よく集電するためには、従来からの1,500Vの直流電源より、大電力を(低い送電ロスで)長距離送電できる高 圧交流電源を用いる方がメリットが大きかったのです(注:日本の鉄道の交流電化方式は在来線20kV、新幹線25kVで、電圧だけでも直流電化路線の10 倍以上のレベル)。  

このように狭軌のレール上を走る電車の性能というものはそれ相応に進歩はしていましたが、新たに広軌の鉄道を建設するという考えは、膨大 となる建設費等から考えて問題外との考えが主流で、政治家(国会議員)の中でも、票にもならない都市部の鉄道増設よりローカル線(政治家の選挙区)を建設 する方がメリット多いという考えの方が大きかったのです。 国鉄上層部の考えも、東京~大阪間は東海道線の一部を複々線化することで対応可能と考えていた ので、新幹線建設計画などは四面楚歌に近かったのですが、大量&高速輸送を実現するためには、大型車両を高速で走行させることが可能な広軌が不可欠と考え ていた十河総裁と島秀雄の二人は、総裁が政治家たちへの働きかけ(説得)と資金調達、技師長が広軌新幹線技術の開発、と役割分担して新幹線の実現へ向けて 働き始めます。

 国鉄調査会の発足

1956年(昭和31年)4月、十河総裁は国鉄内部で島技師長をチーフとする「東海道線増強調査会」(通称 調査会)を発足させ、最初から広軌の別線鉄道を建設するとは想定せずに、将来の東海道線の輸送量や増強方法等の問題を整理するため以下の点について調査・ 検討を開始しました。  


将来の輸送量の検討
道路、鉄道を含む総合的な交通量の現状把握、各交通機関の輸送力の現状、将来の暫定輸送量  
将来提供すべきサービスの程度  
輸送量を増強する方式  
動力、車両、保守などの諸方式  
その他これら諸問題に関連する事項

調査会の調査・検討の結果、輸送量増加の見通しと、東海道線増強の必要性については比較的順調に意見がまとまり、増強方式については次の5案が出されました。

(A)狭軌併設案
(B)狭軌別線案
(C)広軌10駅案
(D)広軌22駅案
(E)広軌電鉄案(旅客のみ。貨物は急行小口程度)

 これらの案のうち、特に(B)(D)(E)の3案を中心に議論されましたが、しかし、どの 案を採択するにしても1000億を超える(※現在価格で3600億円以上)巨額の投資が必要なこと、更に、すでに当時具体化しつつあった東京~大阪間の高 速自動車道建設計画との関係があり、単に国鉄の問題としてではなく、政府の交通政策の一環として取扱うことが妥当と判断されました。ちなみに、当時の国家 予算が4兆1000億円程度の時代ですから、その投資額の巨大さが分かろうと言うものです。(※当時の大学初任給をベースに計算した値) ちなみに、鉄道技術研究所と言えば、国鉄の研究所のように見えますが、実際は国鉄内の部門ではなく、国鉄の”下請け機関”に過ぎなかったのです。 

当時の国鉄には、内部に正式の技術開発部門があり、そこには国鉄生え抜きの技術者連中が、蓄積した技術力を持って、鉄道開発をリードしていたのです。 要するに国鉄鉄道技術研究所という機関は、当時の国鉄では外様のような存在でしかなかったのです。  「東京ー大阪間3時間の可能性」講演 この時に、国鉄が直面していた閉塞状態から脱出させることを可能とし、世界に誇る新幹線を創り出すことを決定づけることになるイベントが開催されます。 そのイベントの発端は、1957年に鉄道技術研究所の所長に就任した篠原武司でした。篠原所長は、研究所の環境整備と所員(技術者)たちの志気向上に心を砕きました。

そして、当時、研究所で行われていた研究を詳しく見て、高速鉄道の可能性に着眼したのです。 そこで篠原所長は、技研50周年記念に合わせて高速鉄道に関する講演を開くことを発案したのです。 そして翌年(1957年)の5月30日に、国鉄の鉄道技術研究所創立50周年を記念する「東京・大阪間3時間への可能性」と題する講演会が研究所の主催で開催され、同研究所関係者は、平均時速200km、最高時速250kmという高速運転を目標として研究した結果、東京~大阪間を3時間で結ぶことが技術的に可能であると発表しました。

この講演会で提案された新幹線の構想は、現在の新幹線とほぼ同じもので、広軌線路を新たに建設し、それに軌道、信号、架線、運転安全システムなどの全ての設備を、”従来の鉄道がもつ様々な制約に縛られない”、新技術と規格で作り、線路を道路と完全に分離した形で建設することで通常の鉄道で多発する踏切事故を解決すること、速度を上げて走行すると台車の蛇行動が発生し、脱線に至る”限界速度”の問題を、台車構造を改造することで解決可能なこと、高速でも車上信号と自動列車制御装置(ATC)による信号保安方式によって追突事故等を防止すること、などの研究成果に基づく具体的な構想の発表は大きな反響を呼び、マスコミも大きく取り上げました。

当時の国内鉄道の営業最高速度は100km/h程度、海外でも1955年(昭和30年)、フランス国鉄のCC7107型電 気機関車が最高速度331km/hの世界記録を樹立してはいたものの、ヨーロッパでも営業列車は最速でも160km/hであり、それ以上の速度は記録とし ては出せても、線路、電車線の保守、車両の保守などの問題から、経営的には極めて困難とされており、”国際的な鉄道常識”からみても画期的なことでした。  

この講演会自体はは国鉄本社役員の許可を得ずに研究所が今後の展望を示す目的で行ったもので、後ほど役員たちからは非難を浴びましたが、あまりにも(講 演会の)大きな反響のせいもあって、総裁と役員はその講演を国鉄本社で聞くことになり、総裁はその内容に大いに共感したと言われています。
後ほど「御前会議」と呼ばれることになった特別講演会、実際は、十河総裁から「自分は講演に行きたかったのに行けなくて残念だ、ついては自分や副総裁 はじめ他の国鉄幹部にもう一度、特別説明会を行なって欲しい」という依頼(指示)によって開催されたものだったのです。

 

時速331キロを樹立したフランスのCC7107型電気機関車 
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  十河総裁は、この講演後さらに広軌新鉄道の実現に自信を持ち、「調査会」は1957年(昭和32年)2月の第5回調査会を最後に、「東海道線増強は緊急課 題」という結論を6月25日に総裁に報告して審議を終了し、総裁はこれらの検討結果を元に国へ積極的に働きかけ、政治家等を説得しながら時間がかかる新線 建設の鉄道建設計画ではなく、プロセスが簡単な東海道本線の単なる線増工事として広軌新線建設を強力に推進して行くことになります。

 

国鉄幹線調査会と交通関係閣僚協議会   

同年(1957年)7月2日、十河総裁は運輸大臣に対して、東海道本線増強構想を国の鉄道整備計画の一環として承認・実現するように要 請しました。これを受けて、政府は8月30日に運輸省内部に「日本国有鉄道幹線調査会」を設置。これに対応する目的で、国鉄本社には総裁命令で「幹線調査 室」が設置されます。
以後、組織の変遷が何度かあったものの、幹線調査室は新幹線建設の推進母体となります。 運輸省の調査会は数回にわたる調査会会議を行い、最終的に11月22日に運輸大臣に対し、「東海道に新規路線を建設する必要があり、かつ輸送の行詰りの時 期と建設に必要な期間とを考慮するとき、これが着手は喫緊のことであると認む」という内容の中間報告書を提出し、翌日、閣議に報告されました。

しかし、当時政府は高速道路との関連などいくつかの交通政策上の問題があったため、これらを審議する目的で、1958年(昭和33年)2月、経済企画庁に 「交通関係閣僚協議会」を設置し、同協議会は、新幹線の必要性を高速自動車道との関連において検討をスタートさせましたが、当時の世論は、自動車や航空機 の時代が来つつあるのに、なぜ新しい鉄道が必要なのかと批判し、世界三大無用の長物は「万里の長城、戦艦大和、新幹線」などと揶揄される厳しい状況にあり、新線建設に疑問をもつ意見が圧倒的でしたが、新幹線の持つ輸送能力と低い輸送原価等を繰り返してアピールし、理解を得る努力が続けられました。
幹線調査会の方は引ぎ続き、新規路線構想の具体化のための検討を進め、その過程で2つの分科会が設立されました。 第1分科会は新規路線の形態、使用方法、動力方式、工期と建設費等の問題を担当し、1958年3月、狭軌並列、狭軌別線など3案の中から「東海道における新規路線は広軌別線が適当」との報告書をまとめました。

その内容は、

動力方式は交流電化
最高速度250km/hの電車運転
推定工事費1755億円 などでした。

第2分科会は、資金、投資計画、運賃の問題を担当し、大略次のような結論の報告書をまとめました。

所要資金は、工事費1725億円(車両費100億を含む)に建設中の利子年7分を合算して、1948億円とする。
上記の金額は、我国の経済で賄い得ないものではない。
将来、収支は十分償いうる。新規路線建設のためには運賃値上げは必要ない。

この第1、第2分科会は、昭和33年7月7日、東海道新規路線建設はあらゆる施策に先行し、かつ強力に推進されるよう政府並びに国有鉄道に決断と努力を要望と いう内容の最終報告書を運輸大臣に提出し、翌々日に閣議でも報告されました。(注:同調査会は8月21日に廃止された) 連絡協議会の審議も進み、必要性の説明・アピールの効果もあり、また、「自動車で鉄道と同量の旅客と貨物を運ぶとした場合、広軌の鉄道線路の8倍の 120m幅の道路が必要」との研究資料なども出されたことも手伝って、新幹線の輸送能力と輸送原価の点が認識され、新幹線の必要性が認められることになり ました。 

政府の懸念は、新幹線と高速自動車道の二重投資になる恐れを憂慮したものでしたが、結局それぞれのメリットを生かして二者択一から二者共存することになりました。 そして、同年12月12日の同協議会は「東海道新幹線計画は早期に着工する必要がある」との結論を出し、19日に閣議へ報告、了解となり、新幹線の建設がついに決定したのです。

新幹線の工事スタート

  1959年(昭和34年)3月末の31回国会において、新幹線建設費1725億円(利子等を含めて1972億円)の予算総額が承認され、1964年(昭和39年)度までの5年間で完成させるという至上命題が課せられ、本格的な工事がスタートすることになりました。 
この予算は未確定要素が多い中で1957年(昭和32年)の物価で試算されたもので、工事の進捗に伴い物騰や計画変更があり、最終的には3800億円(現在価格に換算して6兆円程度※)に膨張し、後に大きな問題となります。 また、この資金は国鉄の自己資金と借入金で賄われていますが、国鉄が赤字に転落たのは皮肉にも開業初年度の1964年(昭和39年)であり、以後厳しい経営が続くことになります。

 

東京オリンピックまでの完成を目標として新幹線工事はスタートしたtokyo_olympic.jpg

 

 

 1959年(昭和34年)5月、第18回オリンピックが東京で開催されることが決定、新幹線工事完成の遅延は許されない 状況となりましたが、東京~大阪間500kmの区間の建設工事は5年半で完成、オリンピック開始直前(10日前)に間に合わせることができたのも、弾丸列 車計画で基本的な技術研究、ルートの調査、用地の買収(18%済)、工事の完了後の保安(日本坂トンネル・新丹那トンネル)があったためと言われていま す。(※当時の大学初任給をベースに計算した値)

同年3月の国会で承認された建設費は1725億円でしたが、資金調達が困難であるとの考えから、当時の池田政権の佐藤蔵相のアドバイスもあり、低金利だっ た世界銀行から借款することとし、また、これによって政府補償事業として内閣が変わっても工事完成を担保にする意味もあり、世界銀行と交渉しましたが、当 時の世界の先進国にも例のない250km/hで走行する新幹線に対する融資は、”発展途上国や戦後の困窮からの復興に助成する”という融資の目的に合わな いなど色々指摘があり、最高速度を200km/hとして、既存技術の延長で可能であることや計画の詳細、収支等について説明を行い、これに対して1960 年(昭和35年)5月に世界銀行の調査団が来日し、約1カ月にわたって新幹線に関連する経済、技術上の問題点を調査し、その結果、採算性が認められて、翌 1961年5月に世界銀行から8千万ドル(228億円:当時は1ドル360円)の融資出ることになりました。

融資条件は、1964年までに 完成させること、年利5.75%、20年間で償還(工事期間の3年半は据え置き)するというもので、1981年(昭和56年)に完済しています。 なお、新幹線構想実現の要塞とも言える鉄道技術研究所も、篠原所長の”世界一の鉄道は世界一の鉄道技術研究所から”というスローガンを掲げて技術者たちを 励ますとともに、十河総裁に申し出て、オリンピックまでの新幹線開業に間に合うよう、研究体制を整えるのに奔走した努力の甲斐あって、研究所は1961年 (昭和36年)に浜松町のバラック建て施設を引き払い、国立(国分寺市光町)に新築された近代的なビルに移転することができました。 新たになった鉄道技 術研究所の敷地は22万平方メートル、その研究レベルは目指した通りの世界一のものとなりました。篠原武司は、研究所の設立と新幹線の開業を見とどけた 後、後進に道を譲って研究所長を辞任しています。

国立に新築・移転した鉄道技術研究所と篠原武司(左上)

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 鴨宮モデル線でのテスト運転開始   

最高速度210kmでの走行は未知の部分もあり、路線の規格も在来線と大幅に違うため、各種地上設備や車両の性能確認のため、様々な地 形で走行テストが行われたほか、戦前に用地買収が行われていた綾瀬~間鴨宮(41km~73kmの32km区間)の工事を優先的に進め、工事の進んだ37 年4月20日に新幹線総局の現業機開として鴨宮にモデル線管理区を設置、その中でも、最も早く完成した鴨宮―大磯間(12km)の一部を使い、昭和37年6月25日から試運転を開始し、1968年(昭和38年)3月30日にはモデル線の高速走行テストで最高時速256km/hを記録し、新幹線の高速走行性能が実証されました。   

 

鴨宮実験線で試験走行に挑む新幹線試作1000形B編成    
(『国鉄車輌誕生 車輌開発の黄金時代』下巻より)

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鴨宮モデル線

 

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東京、横浜、名古屋など大都市内への工事も進み、1968年には新丹那トンネル(7,958m) の完成など長大トンネル、長大橋梁の工事がすべて完了、39年には軌道、電気、鳥飼車両基地などの開業設備工事が行われ、モデル線区間から熱海までは 1964年4月に完成、三島までは5月に完成、5月1日からは大阪―米原間が完成。あわせて量産車によるテスト運転も開始され、8、9月には全線試運転が 実施されました。また、予定より約半年遅れましたが、走行試験、訓練運転等も無事終了し、5年半という短期間で世紀の大事業が完成、そして1964年(昭 和39年)10月1日に東海道新幹線の営業が正式に開始します。

 

十河総裁と島技師長の退職  

新幹線建設には、ある程度の費用増加が予想されていましたが、実際には工事完成まで予算総額の改訂が2回行われ、物価の高騰、協議によ る構造変更等によって最終的に建設費は3,800億円と膨れ上がりました。 この工事費の増額責任や政治家からのローカル線建設の要請を断って来た経緯か らか、十河総裁は完成を見ることなく1964年5月19日の任期切れで退職することになり、その後島秀雄も慰留されましたが辞任し、短期で用地買収、低予 算での建設という困難な仕事をこなした土木エンジニアの初代幹線調査室長大石重成も退職していきました。

東海道新幹線開業式の折(1964年10月1日)、東京駅9番ホームで行われた「ひかり1号」列車出発式でテープカットをしたのは、十河信 二の後を継いで第5代国鉄総裁に就任した石田禮助でした。出発式の来賓名簿にも十河と島の名前はなく、新幹線建設の生みの親は自宅のテレビで開業式典の様 子を眺めていたと言います。 この新幹線完成時のエピソード、実は十河総裁などが国会での承認を得るために予算を低く見積もらせたこと、地価高騰のあおりで土地買収額が増加したこと、 さらには新幹線建設に資金を集中するために、ローカル線建設の陳情を蹴り国会議員の不興を買っていたことなどがあって、国会で責任問題に発展していたこと が原因だと思われます。したがって、十河総裁の退任は、これら全ての責任を取る形で行われ、島技師長も十河に殉じて国鉄を退職したというのが真相のようで す。

東海道新幹線開業式の模様

sinkan-inaugra.jpg

 

 

新幹線の父と称された十河信二(左)と島秀雄技師長(右)

十河sousai.jpg shima.jpg

 

東海道新幹線の名古屋-新大阪間経路は、当初計画した鈴鹿山脈経由ルートが費用や技術、工期の制約から断念され、東海道本 線同様に関ヶ原を経由するルートに変更されました。 関ヶ原周辺は谷間で標高も高く、冬期には激しい降雪のある地域でもあるのですが、このような区間を高 速列車が冬期に走行する状況の研究が開業前には十分に行えなかったこともあり、このことは、1964年(昭和39年)の開業後初めての冬期に関ヶ原での着 雪による車両故障を頻発させる原因となっています。

 

sinkanrail.jpg

 

このモデル線区は、設備が無駄にならないよう、建設中の路線の一部を先行完成させて利用する手法が採られ、東海道新幹線開業後は新横浜-小田原間の一部に組み込まれています。この方法は後の東北新幹線の小山実験線や、リニア山梨実験線にも踏襲されています。小山実験線には実際に駅施設も設けられ、後に小山駅となっています。

またテストに使われた試作電車は、東海道新幹線開業後に改造を受けた。A編成は救援車941形に、B編成は電気軌道総合試験車922-0形となり、それぞれ役立てられることになる。941形は全く活躍する機会もなく廃車となりましたが、922-0はその後0系を元とした「ドクターイエロー」が登場するまで現役でいました。

国鉄の民営化

1964年(昭和39年)10月1日に、東京オリンピックの開催に合わせて開業した東海道新幹線は、当初の営業最高速度は200km/hで したが、路盤の安定が確認された翌年には210km/hに営業速度を上げました。 日本の二大都市である東京~大阪間は、1958年(昭和33年)から在来線の特急でも日帰り可能になっていたものの、滞在時間がわずか2時間余りしか取れ ませんでしたが、新幹線の開通により、日帰りでも滞在時間を充分取れるようになり、社会構造に著しい変化を及ぼし、ビジネスやレジャーの新しい需要を喚起 しました。

さらに東海道新幹線においては当初の12両編成が、1970年(昭和45年)の大阪万博の開幕を機に16両編成まで拡大され、高速大量輸送機関としての地位を確固たるものとしました。 その一方で、新幹線の建設や特急・急行列車の増発、さらには都市部における通勤輸送増強(通勤五方面作戦など)などの設備投資に追われたことから、新幹線の開業した1964年(昭和39年)度から国鉄収支は赤字に転落し、以後拡大する一方となって、結果的に新幹線建設は国鉄破綻の1つの原因となったと言われていますが、これに対し、JR東海葛西敬之会長はその著書の中で「東海道新幹線はあくまで内部留保された資金と借金で建設資金をまかない、それらを運賃・料金収入のみですべて回収したものであり、新幹線建設が国鉄破綻の引き金を引いたという認識は誤りだ」と述べています。

いずれにせよ、以後の国鉄において新幹線は重要な収入源となっていきます。 その後、東海道新幹線に続いて、同じように需要の増加していた山陽本線の抜本的輸送力改善と高速化を目的として、1967年(昭和42年)に東海道新幹線を延長する形で山陽新幹線が着工され、1972年(昭和47年)3月15日に岡山まで、1975年(昭和50年)3月10日には博多まで開業しました。 さらに東北方面への延長も計画され、1971年(昭和46年)には東北新幹線上越新幹線が着工され、1974年(昭和49年)になると、当時建設中であった成田空港へのアクセス路線として成田新幹線も着工しましたが、反対運動による用地買収の難航やトンネル工事での異常出水などがあり、工事中止となりました(ただし、後にJR東日本と京成電鉄の成田空港乗り入れの際にこの新幹線建設で作られた設備が活かされることになる)。    

現在、上越新幹線で使用されているE4系「Maxとき」

  E4_Max_Toki.jpg

 

また、名古屋新幹線訴訟な ど、新幹線沿線での騒音・振動による公害問題がこの頃から深刻化しています。さらに国鉄財政の悪化に伴う運賃・料金値上げの繰り返し、労働紛争によるスト ライキの頻発化などから、既存新幹線の乗客が減少傾向に陥り、さらに経営問題と労働紛争の影響から技術革新も見られなくなり、新幹線の発展・進歩は停滞し てしまいます。 東北新幹線と上越新幹線は当初の予定より5年遅れ、1982年(昭和57年)に開業し、1985年(昭和60年)には用地買収の関係で遅れていた都心(上 野)乗り入れを果たしました。

これにより東北・上越地方における鉄道シェアは大幅に拡大します。しかし、国鉄はそれら新幹線の建設費負担も重なって遂に財政破局的状態となり、中曽根内閣の下で断行された1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化に至ります。  国鉄の分割・民営化後、東北・上越新幹線はJR東日本、東海道新幹線はJR東海、山陽新幹線はJR西日本と分割して運営されることになり、最初、設備は「新幹線保有機構」が保有し、JR各社が第2種鉄道事業者として路線を借りて運営する形としました。新幹線の保守費用はJR各社が負担し、「新幹線保有機構」は設備の貸し代だけを受け取るもので、利益の出る新幹線事業によって赤字となる他地域のJR会社への補填を行うのが目的でした。

 

新幹線の進化とバリエーション  

 新幹線は1964年のデビュー後、長い期間にわたって営業最高速度は210km/hにとどまったままでした。 新幹線が東京~大阪間までに所要した時間は3時間10分、それに対して旅客機は約1時間半なのですが、航空機の場合は搭乗までの所要時間や到着後ゲートを出る時間までを含めると、航空機の方がやや遅いか同じくらいでした。

新幹線のメリットは、大量輸送と正確な時間、それに料金(運賃と特急料金の合計)が飛行機より安いことでした。 しかし、岡山(1972年)、博多(1975年)と新幹線が延長されるにしたがって、航空機に対するメリットは料金と大量輸送だけになり、区間所要時間では当然負けるようになりました。 航空機に対抗するためには新幹線のスピードアップが不可欠でしたが、すでに巨額な債務のため新幹線の進歩・発達に十分な資金を注ぎ込める余力のなかった国鉄にとっては、0系の後継モデルとして100系を開発するのが精一杯でした。100系はデザイン的には進歩したシャープな流線型でしたが、最高速度は270km/hまで出せたものの、騒音問題などから営業速度は0系とほぼ同じ(220Km/h)で、100系を最後に国鉄は民営化されました。

国鉄最後の開発モデルとなった100系 (東海道・山陽新幹線の二世代新幹線) 100series1.jpg     

 

国鉄の民営化から十数年を経て、JR3社の経営が安定化して、東京証券取引所などへの上場が視野に入ると、輸送量に応じ て貸し賃が変わるこの制度のままでは会社の営業努力が反映されないことや、各社の資産・債務の額が確定できないことなどが問題視され、結局1991年(平 成3年)に制度は変更され、JR各社が新幹線資産を新幹線保有機構(鉄道整備基金に改編)から60年払いで買い取ることになりました。 

分割・民営化後、技術・営業面で停滞していた新幹線も新型車両の登場、新タイプなど進化とバリエーションが現れはじめました。新タイプとしては、ミニ新幹線と呼ばれる形式の列車も開発されました。これは、新幹線規格(フル規格とも呼ぶ)の線路を新たに建設せずに、既存の在来線を改軌(新幹線と同じ広軌レールを使用、または狭軌と併設して広軌レールを追加敷設して3本レールとする)して新幹線路線と直通運転(新在直通運転という)できるようにした方式で、ミニ新幹線と 呼ばれますが、狭軌用に建設されている在来線を走るために、鉄橋やトンネルにぶつからないように車体サイズは新幹線より小さく(幅2,950m、高さ 4,080m)、速度も在来線区間では最高130km/hと低めになっています。(注:全国新幹線鉄道整備法の定義では在来線であって新幹線ではない。し たがって”ミニ新幹線”というのはあくまでもJR東日本がPR用につけたネームとなる)

山形~蔵王間では在来線との併用線を走るミニ新幹線(400系「つばさ」 1992年) mini-sinkan-rail-2.jpg  mini-sinkanmap.jpg  

 

 1990年代になると、民営化後、十数年を経てようやく経営が安定したJRは、速度性能に優れた新型車を次々に開発・投入します。JR東海は、岡山開業前に試作した951系試験車(最高283Km/hを達成)などの技術をベースとした300系(営業最高速度270km/h)を開発・製造、。1992年より営業開始し、JR西日本も速度性能を向上した500系(山陽区間=300km/h、東海道区間=270km/h)を1996年より営業開始、ついで1999年には、JR東海とJR西日本が共同開発した700系(山陽区間=285km/h、東海道区間=270km/h)を開発・製造し、スピードアップを図ってきました(注:東海道新幹線は規格が違うため、最高速度が抑えられている)

 

  300系 (東海道・山陽新幹線の第三世代新幹線

300series.jpg

  500系

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700系 (東海道・山陽新幹線の第四世代新幹線)

700series.jpg

 

シンカンセンが世界へあたえた影響

世界の高速鉄道の最高速度  

 営業速度で世界初の210km/hを達成した新幹線は、欧米各国に大きな衝撃と影響をあたえました。 鉄道先進国を自負していたフランスは、1981年に本格的な超高速列車TGVを開発し、営業最高速度260km/hを達成し、新幹線が達成した世界最高速の記録を更新しました。

TGV_Train_à_Grande_Vitesse.jpg

その他、ドイツのICEやイタリアのペンドリーノで も高速列車が計画され、実現に移された。イタリアのペンドリーノは欧州初の高速新線であり、1970年に工事が始まり、1978年に部分開業を迎え、 1983年に250km/h運転を開始したものの、その後の整備で仏独に遅れを取り、全線が開業したのは1992年である。

     ICE-1(初期型) と Pandolino ETR450(初期型)

ICE1_Fahlenbach.jpg Pendorini-ETR450.jpg

 また、イタリアでは2012年から同国初の民間高速鉄道NTV社が営業を開始する予定で、フェラリーを思わすようなボディカラーの列車がお目見え。客席シート450席は全て革張り、車内では全無料の無線インターネットの使用ができるほか、テレビの視聴も全車両で可能。天井に設置された複数のモニターで映画を楽しめる車両もあるという豪華な列車で、北部トリノ~南部サレルノ、北部ベネチア~中部ローマの2路線を最高時速300Kmでつなぐ予定となっています。

                         フェラリーを思わすNTVの先頭車

Italo1.jpg

 

  Italo2.jpg Italo3.jpg

 

  スペインは、TGV方式の高速列車を採用、その他にもフランスからTGVを導入する国が増えています。 ロシアの高速列車ソコルは1997年、ドイツ鉄道の技術支援を受け、モスクワ~サンクトペテルブルク間654kmを営業時の最高速度250km/hで結んだことにより、それまで4時間20分掛かっていたものが、2時間30分に短縮されました。 なお、既に広軌の鉄道網が整備されているこれらの国では、駅周辺は既存路線をそのまま利用し、郊外区間では諸条件によって高速新線建設と在来線改良を使い分けることが多いというのが特徴です。 ロシアの高速列車ソコルは最高営業速度250Km/hを達成したが、2002年に計画は中止され、ドイツ・シーメンス社製高速車両ヴェラロをベースにした車両サプサンが導入されつつあります。

     ВСМ250「ソコル」と後継種のサプサン

  russia_sokoru320.jpgrussia_kousoku320.jpg

 

現在(2010年1月)、営業運転速度ランキングは、ドイツのICE3の技術を導入した中国高速列車(京津都市間鉄道およ び武広旅客専用線)が達成している350km/hが世界最高であり、ついでフランスTGVの320km/h、それから日本の新幹線500系およびN700 系(300km/h)、ドイツのICE(300km/h)が3位となっており、そのほかでは2004年にフランスのTGVを導入した韓国高速鉄道 (KTX)が300km/hで開業し、2007年には日本の新幹線方式(一部仏独の技術)を導入した台湾の高速鉄道が300km/hで開業しているのは記 憶に新しいところです。

なお、フランスはTGVの営業速度をは360km/hへとアップする計画を進めており、スペインでも、マドリード~バルセロナ間630kmの新線で、シー メンス社が開発・製造したVelaro E型を使い350km/hで営業する計画があり、これが実現すれば、マドリード~バルセロナ間は2時間30分に短縮されることになります。さらにロシアや ベトナムでも新幹線をモデルにした最高速度350km/hの高速鉄道建設が計画されています。

スペイン高速鉄道(AVE)のヴェラロEタイプ列車

Velaro.jpg

 

一方、日本の新幹線は、東海道新幹線は建設時期が古く、カーブなどは最高200km/hでしか走れないという制限がありま す。山陽新幹線・東北新幹線なども、フランスやドイツなどと比べると山岳区間が多く、路線の起伏やカーブによる制限などから、さらなる高速化を妨げていま す。また、東北新幹線や上越新幹線などは寒冷地対策の装備のため、車体重量増という、速度アップにハンデとなるデメリットを背負っています。また沿線に住 宅地が多いため、騒音対策も必要となるなど、300km/h以上の営業運転を実現するためには解決しなければならない課題が多いというのが実情です。

しかし、2007年よりJR東海・西日本は、山陽新幹線で500系と同じ最高速度300km/h、東海道新幹線でも従来の車両では255km/hまで減速する必要のあった半径2500mのカーブを、車体傾斜装置を搭載することで270km/hで通過できるN700系の導入を開始しました。 また、JR東日本は2004年から360km/h走行を前提とした試験車両(E954ならびE955)を開発し、2009年からはE954形をベースとして320km/hでの走行を前提にしたE5系を製造・2011年より最高速度300Km/hで営業開始しています(2013年春以降320km/hで運転する予定)。

E5に引き継がれた黄色い耳、エアブレーキを装備したE955試験車両 E955.jpg

E5系

E-5.jpg

700系

700series1.jpg

 

JR東海は2011年後半にも東海道新幹線の一部区間で、営業時の最高速度を270km/hから330km/hに引き上げ ることを検討している。330km/h走行は京都 - 米原間の直線が長い一部区間を対象に「のぞみ」の始発や終発に限った運行を想定。最先端の車両であるN700系を使い、前方に待機列車がなく、性能を存分 に発揮できる時間帯に導入される。

N700系7000番台

 

N700-7000series.jpg

 

 

Part-2へ続く》

 

この特集を書くにあたって、以下の資料を参照させていただきました。

参考資料: 新幹線の歴史(Wikipediaより)、満鉄「特急あじあ号」JR東日本-車両図鑑

       証言記録 国鉄新幹線、 東海道新幹線の建設新幹線開発物語


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Loby-M

>xml_xslさん、ご訪問&nice!有難うございます。

>song4uさん、ご訪問&nice!有難うございます。

>isoshijimiさん、ご訪問&nice!有難うございます。
by Loby-M (2012-01-08 07:42) 

Loby-M

>rtfkさん、ご訪問&nice!有難うございます。

>nikiさん、ご訪問&nice!有難うございます。

>konnさん、ご訪問&nice!有難うございます。

>のら人さん、ご訪問&nice!有難うございます。

>DEBDYLANさん、ご訪問&nice!有難うございます。

>いっちゃんままさん、ご訪問&nice!有難うございます。

>myossyさん、ご訪問&nice!有難うございます。

>ENOさん、ご訪問&nice!有難うございます。

>keykunさん、ご訪問&nice!有難うございます。

by Loby-M (2012-01-10 05:40) 

konn

Loby-Mさん
毎回、勉強になります。
本年もよろしくお願いいたします。
by konn (2012-01-10 08:08) 

etu

新幹線って。凄いですよね。
と言うか日本のあのシステムは素晴しいと思います。
by etu (2012-01-10 10:23) 

春分

少し知ってることと、知らないことが読めました。何にしろ嬉しい。
新幹線通勤者なので毎日100km行き来していますが、稀に止まります。
地震を感知した時です。気を失うが如く静かに止まります。
八紘一宇。理念通りならこれほど誇らしいスローガンはなかったのに。
by 春分 (2012-01-10 21:18) 

MADONNA

新幹線の応援をありがとうございます♪
私が国鉄に採用されたとき・・仙台〜盛岡間の東北新幹線が開業しました。新幹線は新青森まで行き、次はいよいよ北海道に上陸を目指します。
新幹線が世界にはばたけるように・・・
これからも 応援を どうぞよろしくお願いします☆
by MADONNA (2012-01-11 12:55) 

seawind335

Myブログにご訪問いただき有難うございました。
これからもよろしくお願いいたします。
by seawind335 (2012-01-12 01:13) 

TAKA

てっきりTGVの方が歴史が古いと思ってましたが、20年近くの差があったことに更に驚きました。
新幹線の日本の技術は間違いなく世界に誇れますね。
by TAKA (2012-01-14 19:50) 

Loby-M

>Konさん、いつもご訪問いただき有難うございます。
 本年もよろしくお願いいたします。

>etuさん、間違いなく、新幹線は世界トップの総合技術です。

>春分さん、毎日新幹線でご通勤なのですか!
 往復100Kmはたいへんでしょうけど、時間にして1時間ほどですか?
 新幹線は世界に誇る日本の技術ですね。

>MADONAさんはJRにお勤めなんですね。
 もっともっと、新幹線の優れた技術を世界中に広げたいですね。
 新幹線をふくめ、日本の技術をこれからも少しづつ紹介・応援していくつもりです^^b

>seawind335さん、ご訪問&nice!有難うございます。
 これからもよろしくお願いいたします。

>TAKAさん、私も知らなかったことを勉強することができました。
 新幹線は世界トップの技術です。日本の誇りですね!

>トモミさん、ご訪問&nice!有難うございます。

>yamさん、ご訪問&nice!有難うございます。

>こけももさん、ご訪問&nice!有難うございます。

>とりのさとZさん、ご訪問&nice!有難うございます。

>wattanaさん、ご訪問&nice!有難うございます。

>素人写真さん、ご訪問&nice!有難うございます。

>Jetstream777さん、ご訪問&nice!有難うございます。

>ヒロミさん、ご訪問&nice!有難うございます。

>ナビパさん、ご訪問&nice!有難うございます。

>tamanossimoさん、ご訪問&nice!有難うございます。

>ちょいのりさん、ご訪問&nice!有難うございます。

>tsworkingさん、ご訪問&nice!有難うございます。

>jinnさん、ご訪問&nice!有難うございます。

>silveragさん、ご訪問&nice!有難うございます。

by Loby-M (2012-01-15 08:27) 

ぜふ

電車はよくわかりませんが、「シンカンセン」はすばらしい乗り物ですね。
世界共通語になるといいですね。
by ぜふ (2012-01-20 22:57) 

Mitty

非常に興味深く、面白い記事でした!
新幹線は世界一ィィィ!!とまではいきませんがww
先人達の知恵と叡智が詰まった新幹線は、日本人としても誇らしいですね♪
一度、「はやぶさ」の「グランクラス」に乗ってみたいと思う、Mittyなのでした。
by Mitty (2012-01-21 08:42) 

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