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聖徳太子と飛鳥時代 [日本の歴史]

 斑鳩の里と書いて(いかるがのさと)と読むそうです。

弱冠十九歳にして摂政(せっしょう)の大役を推古天皇から任された聖徳太子が、601年に蘇我馬子の制約から離れ、摂政としての政策を実施する目的で新しく宮を建設し、日本の政治の中心地とした場所が斑鳩の里(太子の里とも呼ばれる)です。

 今回は1974年発行の『日本の歴史 第2巻-飛鳥古京』(研秀出版株式社)の内容をベースとした内容です。
なお、本記事はLobyの別ブログにて記載されたものに加筆修正をしたものであることをお断りしておきます。

 

『日本の歴史 第2巻-飛鳥古京』の表紙
1-飛鳥時代

聖徳太子の偉業

 聖徳太子の時代は『飛鳥時代』とよばれ、冠位十二階や十七条の憲法などの制定、小野妹子など遣隋使の派遣し、隋の進んだ文化や制度を日本に取り入れ、のちの「大化の改新」の元となっています。天皇を中心とした中央集権制度が確立されたのもこの時期で、歴史的にも大きな変換が起きた時代でした。

 

「斑鳩の里」は別名「太子の里」とも呼ばれる

1-飛鳥時代 法隆寺1





斑鳩宮の場所




とともに、538年に百済(くだら)からもたらされた仏教は天皇の帰依をめぐって、物部 守屋(もののべ の もりや)一族をリーダーとする廃仏派と蘇我 馬子(そが の うまこ)をリーダーとする崇仏派の権力争いを引き起こしましたが、587年に蘇我氏は物部氏を滅ぼし、これにより仏教は日本で定着することになります。



聖徳太子の画(Wikipediaより)

409px-Prince_Shotoku.jpg



聖徳太子の仏教観と実践

 太子が作った『憲法十七条』は現在の憲法とは大きく異なり、宮人・貴族の服務規律であり、道徳訓戒だそうですが、その中には、たとえば第二条のように”篤く三宝を敬え”という文があり、仏教で教える「仏」と仏の説く「法」とその法を弘める「僧」を敬うことを教えています。

なぜ仏教が道徳的規範に必要なのかと言えば、”悪に走った人間でも、仏教によって善に立ち返ることができる”からだそうです。ここで言う仏教は、


 ものの生命を絶つ殺生
 他人のものを盗む偸盗(ちゅうとう)
 みだらな異性関係を意味する邪淫(じゃいん)
 嘘や偽(いつわ)りを言う妄語(もうご)
 酒を飲む飲酒(おんじゅ)


以上の五戒が中心となっていて、人間はこの五戒を守ることで善への道を進むことができ、三宝を敬うことの意義は五戒を実践することだそうです。


最古の憲法十七条版木(弘安8年頃のもの)

kenpo17hangi.jpg



さらに憲法十条では、胸中の怒りや、顔面にあらわれる瞋(いかり)を抑えるように求めています。
人はそれぞれ心をもっており、その心によって、是とするところ、非とするところが異なっており、我かならずしも聖人ではなく、彼かならずしも愚人ではない。ともに凡夫(ぼんぷ)であるとし、是非を争い、善悪に迷う人間の凡夫性についての反省がこめられているとか...


聖徳太子が建立したと言われる法隆寺(Wikipediaより)

401px-Horyu-ji09s3200.jpg



興味深いのは、聖徳太子と同時代の中国の「陳(ちん)」や「隋(ずい)」、それに朝鮮半島の「百済(くだら)」や新羅(しらぎ)」では国家仏教(鎮護国家仏教とも言う)が盛んであったわけです。
つまり、仏法の呪力により、内乱や外寇(外国からの侵略)、あるいは天変災異(てんぺんさいい)などからの国家の擁護を説く「仁王教(にんおんきょう)」や「金光明経(こんこうみょうきょう)」など経典およびこれらの経典を用いる仏教宗派を優遇・保護していたわけです。

当然、聖徳太子はそれらの国家による”仏教の利用”を知っていたと思われますが、太子は「三宝」を敬うことを薦めながらも、呪術による国家仏教というものを採用しませんでした。また、病気などの治癒を目的とする”現世利益的”な仏教とも一線を画しており、聖徳太子の仏教崇拝はあくまでも個人的なもの、精神的なものであった、と仏教研究の第一人者である田村圓澄氏(日本史学者、仏教史学者、九州大学名誉教授)は本の中で解説しています。



飛鳥の野仏 大陸伝来の仏教は、時代が下がるにつれて庶民の中にも定着していった

1-飛鳥の石仏



しかし、摂政-現在の総理大臣のような役職-であった聖徳太子、当時は上宮王(かみつみやのみこ)、または厩戸王(うまやどのみこ)、または豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)などと呼ばれていた聖徳太子のような位の高い人間が仏教のような徳を教え、善の道を教える高等宗教(古代神祇信仰と比較して)を信仰しはじめたということは、当時の貴族階級や豪族たちに大きな影響をあたえ、これらの階級における仏教信仰者を増やすとともに、次第に庶民の間にも定着していったものと想像されます。


蘇我氏と物部氏の権力闘争

 物部氏を滅ぼした蘇我氏は権力を欲しいがままにし、馬子、蝦夷、入鹿の三代にわたって全盛を極めたといわれます。
その実力は崇峻天皇の暗殺(592年)、元、蘇我氏の本居で天皇家の領地となっていた葛城県の割譲を推古天皇に要求((624年)、蝦夷(えみし)による天皇をないがしろにする振る舞い、入鹿(いるか)による上宮王家(山背大兄王-聖徳太子の子ともいわれる)の討滅(643年)、境部摩理勢の失脚(628年)など専横を極めます。

余談ですが、なぜ蘇我氏が日本に仏教を弘めることを推進したのかという理由について、日本には仏教を伝えたのに、自国ではあまり仏教を興隆させなかった百済が衰亡の一途をたどり、逆に仏教信仰が盛んで多くの寺院を建立供養していた新羅が栄えていたのを見て、「これは仏教の力だ」と蘇我氏は考えたという説があります。さらに、次々と朝鮮半島から渡来人が流入する中で、人々をまとめ上げる宗教として日本古来からの神祇信仰だけではなく、仏教が必要である、と考えたとも言われます。

一方、蘇我氏のライバルであった物部氏は、大和古来の神祇(天神地祇ともいう)を信仰していました。今でいう神道ですが、神道の源流には、日本古代の自然信仰と原始祖霊信仰(鬼神信仰)があったのです。それゆえ、当時流行し始めた疫病の原因は異国の神である仏(仏教)が日本に入ったためだと主張し、敏達天皇の詔(命令)を受けた上で仏殿・仏塔を焼き払い、仏像を海に流し、馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵した上に、3人の尼僧を捕らえ、衣をはぎとって全裸にし、群衆の目前で鞭打つという強硬な廃仏運動を起こしています。

しかし、そののちも疫病は蔓延し、敏達天皇のあとを継いだ用明天皇まで即位のわずか2年に崩御(587年)しています。ここにいたって、守屋は自分が推す穴穂部皇子を皇位につけようと計画しましたが、同年6月馬子は炊屋姫((とよみけかしきやひめ。用明天皇の妹で、敏達天皇の后。後の推古天皇)の詔を得て、穴穂部皇子を誅殺。さらに同年7月、同じ炊屋姫の詔を得て蘇我氏は物部守屋を攻め、これを滅ぼしたわけです。同年9月9日に蘇我氏の推薦する崇峻天皇が即位します。このとき聖徳太子は14歳で、その2年後に推古天皇によって摂政に任命されるわけです。



1-飛鳥の里


この時代の天皇系図はかなり複雑で、豪族であった物部氏や蘇我氏と天皇家の利害関係などにより、1、2年ほどで天皇が交代したり、病没、暗殺、殺害などされており、それは継承資格をもつ皇子たちなどにも及び、多くの皇子が殺害されています。ちなみに蘇我馬子に殺害された崇峻天皇と馬子は伯父・甥の関係でした。まあ、このような天皇家を巻き込む権力争いは飛鳥時代に限ったことではなく、時代を下って源平時代のころまで頻繁に起きていますが。この時代に天皇が政権争いから自らの身を守る目的で、政治を聖徳太子のような皇子による摂政に任せたのも、権力者たちと直接政治について交渉するよりも摂政という緩衝を設けた方がリスクが少ないと考えた理由からです。



聖徳太子の時代の天皇系図(26-37代) Wikipediaより 

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 さて、冒頭に紹介した「斑鳩の里」は、物部氏の没落によって、事実上日本の最高権力者となった蘇我氏の影響から離れたところで執政をとりたいと考え、聖徳太子が宮廷を建設する場所として選んだのが斑鳩の里であり、この場所に建てられた宮殿は「斑鳩宮(いかるがぐう)」と呼ばれ、近くには太子が建立した法隆寺などがあります。

が...

私の勘違いかも知れませんが、当時、蘇我馬子が住んでいた飛鳥の地と斑鳩の里って、マップで調べてみたところ徒歩でわずか4時間ほどしか離れていないんですよね...
それでも、太子にとっては”目の上のたんこぶ”的な蘇我氏(の目?)から少しでも離れているという精神的安心感があったのかなァ、と思います。



飛鳥の地と斑鳩の里を結ぶ徒歩ルート


大きな地図で見る




蘇我氏の没落 

 さて、日本の最高権力者となり、飛ぶ鳥を落とす勢い(どころか天皇まで殺害している)を持ち、それこそ”蘇我氏にあらざれば人にあらず”(”平氏にあらざれば人にあらず”をもじった言葉)とでも嘯(うそぶ)いても不思議ではない権勢をもつことになった蘇我氏。
聡明で蘇我氏を抑えつつ、中央集権制の体制づくりを進めながら改革を進めていた聖徳太子は622年に48歳で亡くなっており、太子の一族 上宮(かみつみや)王家も蘇我馬子の子、入鹿によって滅亡されてしまいます(643年)。
 不穏な政情を反映するかのように、この頃(舒明天皇の時代)、災難や天変地異が相次いで起こっています。
634年には彗星が現れ、636年5月には霖雨(ながあめ)に見まわれ、国土が洪水に覆われ、その翌月には岡本宮(おかもとのみや)が焼失し、この年には大規模な旱魃も起こり民が飢えました。637年の2月には大きな星が雷鳴のような大きな音をたてて東から西へ流れ人々を驚かし、そのほかにも大風に見舞われたり、霖雨のために時期はずれに桃や李の花が咲いたり、639年にはまた彗星が出現しています。僧(みん)は「箒星が見えると飢饉になる」と予言しています。

 入鹿の時代になると、さらに強力となった蘇我氏の権力。いつ、天皇に取って代わるかも知れないほどの力をもつ蘇我氏の力を危惧したのが、中臣鎌子連(なかとみの かまこのむらじ。のちの藤原鎌足)です。鎌子は入鹿が君臣長幼の序をわきまえず、国家をわがものにする野望に憤っていて、入鹿を倒し、改革をすすめることのできる聡明なリーダーを求めていたのです。そしてその鎌子に選ばれたのが中大兄皇子(なかのおおえおうじ)でした。
鎌子と意気投合した中大兄皇子は、蘇我氏打倒の計画を用意周到に練り始めます。


中大兄と鎌足が入鹿暗殺の計画を練ったのは南淵請安(みなぶちのしょうあん)の家だった。
(写真は南淵請安の墓)

1南淵請安墓



そしてついに645年6月8日、中大兄皇子は暗殺計画を実行。
この日、新羅、百済、高句麗の三国からの調(みつぎ)の儀式が行われるという口実で入鹿(大臣の職)を招待し、上奏文が読まれている最中に中大兄皇子と佐伯 子麻呂(さえき の こまろ)が斬り殺します。乙巳の変(いっしのへん)と呼ばれるクーデーターで、このあと、中大兄皇子はすぐ蘇我氏の軍勢との戦のために軍備をととのえ、これに諸皇子、諸豪族もしたがいますが、中大兄皇子の送り込んだ使者(巨勢徳多)の説得の甲斐もあって戦意を失い逃げ散ってしまいます。
残った蝦夷は館を焼いて自殺し、比類する者もなかった権勢を誇った蘇我氏(本宗家)もあっけなく滅亡してしまいます。


蘇我馬子の墓だといわれる「石舞台古墳」は総重量は2,300トンに達すると推定される巨大な古墳である(Wikipediaより)

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大化の改新 

政敵ともいえる蘇我氏を打倒した中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足(後の藤原鎌足)は、いよいよ本格的に政治改革を始めます。これが「大化の改新(たいかのかくしん)」と呼ばれるもので、642年(大化2年)の元旦に「改新の詔(かいしんのみことのり)」を発します。

この「改新の詔」は、後の律令制へつながっていく王土王民(おうどおうみん)を基本理念とした内容で、これを機に日本の政治は飛鳥の豪族(蘇我氏など)を中心とした政治から天皇中心(中央集権化)の政治へと移り変わって行ったのです。

 ここで律令制について見てみると、律令制は古代から中国で理想とされてきた王土王民(王土王臣とも言う)、すなわち「土地と人民は王の支配に服属する」という理念を実現するための体制でした。また、王土王民の理念は、「王だけが君臨し、王の前では誰もが平等である」とする一君万民思想と表裏一体の関係をなしていたそうです。

律令制では、王土王民および一君万民の理念のもと、人民(百姓)に対し一律平等に耕作地を支給し、その代償として、租税・労役・兵役が同じく一律平等に課せられました。さらに、こうした統一的な支配を完璧に実施するために、高度に体系的な法令が編纂され、律令格式をベースとした非常に精緻な官僚機構が作り上げられました。この官僚機構は、王土王民理念による人民統治を実現するための必要なシステムだったわけです。




朝鮮半島と大和朝廷の関係



 ここで中大兄皇子(後の天智天皇)の政治・政略にとってたいへん重要な外的ファクターであった、朝鮮半島の状況を見てみましょう。5世紀末、つまり中大兄皇子が中臣鎌足(後の藤原鎌足)などの助けもあって、蘇我氏を倒し、改革を進めていたころ、隣国の朝鮮半島は「三国時代」と呼ばれる時代にあり、新羅、百済、高句麗の三国がおたがいに対立していた時代でした。

 これらの三国のうち、新羅は高句麗に対抗する目的から同じく高句麗の侵略を目指していた唐と同盟関係をもち(唐は新羅の宗主国であった)、高句麗は唐・新羅に対抗して百済および日本と同盟を結び、日本は朝鮮半島における(唐などの日本侵略に対する)防波堤として百済と同盟を結ぶという複雑な関係をもっていたわけですが、660年9月、ついに唐の支援を受けた新羅は百済を侵略し、王都を占領、百済王及び君臣はすべて捕虜となりました。

この時点で日本はまだ新羅に対して友好関係維持政策をたもっていたのですが、百済の武王の甥・佐平鬼室福信(さへいきしつふくしん)将軍が百済再興の軍を興し、日本に人質として送られていた王子・豊璋(ほうしょう)の返還と救援軍を要請したのに対し、応じたことで状況は一変します。


5世紀末の朝鮮半島勢力図

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 福信将軍は、豊璋を国王として迎え、百済の遺臣を集めて各地で挙兵し、新羅軍を追い出すことを目指していたわけですが、この要請に対して大和朝廷はどう対応したかと言えば、天皇の勅命によって豊璋を王位につけるとともに福信にも爵位をあたえ、661年1月には新羅遠征のために軍備を進め、同年7月、斉明女帝が崩御すると中大兄は皇子の位のままで称制(新帝が即位をしないで政務をとること)し、8月には第一陣を朝鮮半島に派遣、ついで翌663年3月には2万7千の二次派遣軍を百済に送り込みました。

 この朝鮮半島での戦い、緒戦は日本・百済両軍ともよく戦い、いくどか勝利をおさめましたが、唐の増援軍の到着、百済軍の内輪もめ(謀反を疑って豊璋は福信を殺害)による戦意の喪失などもあって次第に新羅が勢力を盛り返し、ついに白村江(はくすきのえ)の戦いで日本軍は惨敗。百済復興の望みはなくなってしまいます。




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この白村江における日本軍の敗北は、予期せぬ波及を大和朝廷にもたらします。

すなわち、新羅・唐による日本侵略の脅威です。翌年(664年)、日本側は侵略に備えるために、対馬、壱岐、筑紫に防人(辺境防備の兵)を置き、烽(とぶひ。外敵の襲来などの変事を都に急報するための設備。山上などに壇を築き,草や薪を燃して昼は煙,夜は火によって隣接の飛ぶ火に順次伝えた)を配します。さらに新羅・唐軍が博多湾から大宰府に攻め込むことを想定し、水城(みずき)を築き、665年からは順次に長門、筑紫(大野城、椽城)、大和(高安城)、讃岐(屋島城)、対馬(金田上)を築かせました。こうして北九州、とくに大宰府の防衛を強化したのです。



現在も残る大野城の大石垣(Wikipediaより)
大野城は全長8200m以上に及ぶ土塁をもつ強固な要塞であった

Oonojou.jpg




 さらに667年になると、中大兄皇子は都を近江に移します。

白村江での敗北後、北九州太宰府を中心に、天然の要害を利用して各地に防衛用の城を次々に築き、大きな土木工事を行って多大な出費のあった大和朝廷(中大兄皇子政権)としては、本来であれば、さらなる出費を余儀なくされる遷都などしたくないところだったでしょう。ましてや、わずか10年前には時の孝徳天皇の反対を押し切って倭京(わきょう、やまとのみやこ)に遷都し、 「狂心の渠」(たぶれこころのみぞ)と言われた土木工事で苦い経験をなめている中大兄皇子が、今度は住んだこともない近江に遷るというのですから、周囲からは猛然とした反対があったものと思われます。



 では、なぜそうまでして遷都をする必要があったのか?

それは、やはり上述の朝鮮半島の緊迫した状況にあったと見るのが妥当であると思われます。

半島で唐の支援もあって、勢力を伸ばしつつあった新羅は、百済を滅ぼした次に高句麗の征服を目指して侵攻しつつあり、遅かれ早かれ新羅・唐が日本にも侵略の手を伸ばすと中大兄皇子は考えていたことはすでに述べましたが、それに加えて「日本書紀」には中大兄皇子は近江で外的(寇)に備える方策を練ったこと、各地に牧(まき。牛馬を飼育する土地)を多く作ったこと、越国(こしのくに)から燃土と燃水(烽の材料)を献上させたこと等が記述されており、それらから想定すると、近江において軍備が着々と整えられつつあったと見られます。

 そのほかにも、近江は全国から軍事的物質を集めるのに至便の交通の中心であったことなどが考えられます。そして、近江遷都実行に拍車をかけたのが、新羅による高句麗攻撃であり、668年10月、中大兄皇子の予想は的中し、高句麗は滅亡してしまいました。日本は大化の改新以来、高句麗とは友好関係にあったこともあり、高句麗の運命は明日の日本の運命かも知れないという危機感が否が応でも生じたのも当然でしょう。中大兄皇子には、高句麗の二の舞いを避けるために必要と思われるすべての手段をとる必要があり、その一環として近江遷都が考えられたのです。(以上、元 国士舘大学教授、古代史研究者・北村文治氏の解説から要旨を引用させていただきました)








律令制支配の確立

 律令制は発布はされたものの、律令制度が徹底されるまでには、まだ幾多の年月を必要としました。 天皇にすべての権力を集中(中央集権化)するということは、詔や律令だけを出しただけで実施できるわけではありません。なぜなら、律令制度のベースとなるフィロソフィーは王土王民思想であり、これは「王だけが君臨し、王の前では誰もが平等である」というのが謳い文句ですから、すでに既得権をもっていた権力者たち、とくに豪族たちがスムーズに受け入れるはずがないからです。律令制度実施を強行し、天皇の権力を巨大化するためには豪族たちの権力&軍事力を上回る力を天皇がもつ必要があったわけです。
そういうわけで、律令制度が実施されることになったのは天武天皇の時代。壬申の乱(じんしんのらん)を経てからでした。

671年、天智天皇(大化の改新を発令した中大兄皇子)は、その子 大友皇子(おおともおうじ)を後継にしようと考えていました。この時期、天武天皇の実弟(注:異説あり)であった大海人皇子(おおあまおうじ。後の天武天皇)は、皇太弟として兄の天智天皇を政治面で大いに補助していたわけですが、天智天皇が大友皇子に皇位を継がせようとする意向は見え見えだったようです。

ちなみに、天智天皇は大友皇子がが皇位継承者として相応しいように太政大臣(だいじょうだいじん)の位までも授けたのですが、大友皇子が身分の低い側室の子という理由(当時の皇位継承では母親の血統や后妃の位も重視されていた)などもあって、大海人皇子は自分が正統な皇位継承者だと思っていたと思われます。



天皇系図38~50代と天知・天武両天皇の関係

Emperor_familyzu_tree38-50.png



 こうして大友皇子支持派と大海人皇子支持派という二派が形成され、当然のように権力抗争が始まるわけです。
興味深いことに、この抗争が始まる前に、天智天皇は大海人皇子に皇位を譲ろうとしたのですが、その裏に何か陰謀めいたものを感じた大海人皇子は、蘇我臣安麻呂(そがのおみやすまろ)の忠告などもあって、天皇の申し出を辞退し、大友皇子を皇太子として推挙した上で出家して吉野にこもっていました。

 天智天皇崩御の翌年(672年)、大友皇子は兵を集め皇位継承のライバルである大海人皇子を襲撃する準備を進めていました。大海人皇子は機先を制して挙兵を決心し、吉野から出て鈴鹿関や不破関などの戦略的要所を占領しながら美濃の和蹔(わざみ。現在の岐阜県不破郡青野原付近)まで進み本営を構えました。「壬申の乱(じんしんのらん)」の勃発です。

大海人皇子の招集に応えて東国の兵たちが続々と皇子のもとに馳せ参じ始めましたが、大海人皇子にとってもっとも強力な援軍となったのが豪族 大伴馬来田(おおともうまくた)で、馬来田の弟 吹負(ふけい)は飛鳥京を攻め、これを落としたことで全軍を一気に力づけました。この緒戦における勝利は、それまで成り行きを見守っていた豪族などを大海人皇子側につかせるきっかけとなるとともに、大三輪氏、鴨氏なども味方となって吹負(ふけい)軍に合流するという効果も生み出しました。



壬申の乱の図

壬申の乱の図



 一方、大友皇子を支持する近江朝廷側も、立ち遅れを挽回しようと軍勢を整え不破関を破り東国に攻め入ろうとしましたが、待ち構えていた大海人軍に敗れました。また、中国地方、九州地方の軍隊を動員すべく使者を送り込みますが思うように行かず、山辺王、蘇我果安(そが はたやす)、巨勢人(こせのひと)など重臣が率いる数万の大軍も不破関を攻撃しようとしましたが、内輪もめが生じ、大海人軍とは一戦も交えずに引き上げてしまいました。

こうして立ち遅れ、誤算の積み重なった近江朝廷側は、近江の瀬田橋を挟んで最後の決戦を行いますが、「後漢書」や「萬葉集」にも歌われる程の熾烈な激戦の末に大友の軍は大敗、大友皇子は自殺し、近江朝廷は壊滅します。
一ヶ月続いた内乱は終止符を打ち、大海人皇子は大和京に入り新宮殿(飛鳥浄御原宮)の建設を命じ、その翌年に天武天皇として即位します。

 



「壬申の乱」が、律令制度の推進にどのような役割を果たしたかというと、日本古代最大の内乱といわれる「壬申の乱」に勝利した天武天皇は巨大な権力を手中したことで、天皇による支配体制の確立、つまり律令制度を強力に推めることを可能としたということでしょう。このプロセスの中で、「壬申の乱」を大海人皇子とともに戦い抜いた豪族たちも整備された官人秩序の中に次第に組み込まれていったのです。

天武天皇の崩御(686年)後、後を継いだのは鸕野皇后(鸕野讚良 うののさらら)で、皇后は690年に即位し持統天皇(じとうてんのう)となり、「飛鳥浄御原令」(天智天皇の近江令の修正版)を発布します。持統天皇は令の充実、官僚組織の整備、藤原京の造営、薬師寺の建立などを残して697年に軽皇子(文武天皇)に譲位しました。










   





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